北村義一の部屋の合鍵を持つ人間はたった一人しかいない。それは昨日、北村に夕食を拵えていったみょうじなまえという女が当てはまる。親しい仲と言えば簡単だが、実のところ、そこに行き着くまでが長い道のりだった。きっかけは神室町でのトラブルから。見ず知らずの男に連れていかれそうになったなまえと男の間に割って入ったのが、当時近辺を巡回していた北村だった。警察の人間がやってきたとなれば、相手も手の出しようがないと引き下がっていったことは、なまえにとって忘れられない出来事だ。

 そんな昔のことをぼんやりと思い出しながら、なまえは北村の部屋にいた。明るい時間に彼の姿はない。今日も正義の体現者として懸命に励んでいることだろう。同年代の男性と比べてあまり散らかっていない部屋で、なまえは昨晩の北村とのやり取りを見返していた。親しい仲になっても変わらない丁寧な口調に笑みがこぼれる。

『なまえさん』

 彼は自分のことをそのように呼ぶ。なんだかくすぐったくなってしまうほど、北村という男は丁寧に接してくれる男なのだ。丁寧が過ぎて、もどかしい気持ちを覚えることもあるが、言葉から滲む丁寧さよりも北村の表情から滲む親しさが特別な何かを感じさせてくれる。それが何よりの喜びであった。そして、それはいつも彼の身近なところで感じるもので、なまえの北村を慕う気持ちに拍車をかける。だからこそ、この部屋に皺の寄ったシャツがないことも、流しに溜まった食器がないことも、綺麗に片付けられた部屋であるということも、ただただ残念でしかなかった。元々几帳面な北村の性格を考えれば当然のことなのだが、やはり少しだけ寂しい。

 そんな、よく出来た素っ気ない部屋でなまえに出来ることは一つ、今晩の夕食を作っておくこと。最初は遠慮していた北村も今では正直に助かると口にしてくれるほど、彼の助けになっているらしい。ちょっとした我儘だったのだが、それでも北村の助けになっているのなら、と思うと通い妻状態の今も悪くない。出来れば、一緒に過ごしたい願望はあるが、彼の多忙さを思うとそこまでは踏み込めないのだ。今のままでも充分に幸せだと、今の今まで重かった腰を上げ、なまえはようやく台所に立った。


***


 仕事に忙殺されそうな彼の帰りを誰が予想出来ただろうか。恐らくそんな人間は居らず、なまえも慣れた部屋の台所で後片付けに入っていた。今日の夕食は昨日告げた通り、まとめ買いしてきた食材で拵えたものだ。あまり濃すぎない味付けと品目の数に気を配りながら、なまえは今夜分の食事を作り終えたのだ。カチャカチャと食器の鳴る音を聞きながら、手元に意識を集中させ、程よく泡立つスポンジで汚れを擦り落としていく。換気扇がぼうぼうと大きな音を立てて、部屋の換気に専念していたから、なまえは彼の帰りに気付けなかったのかもしれない。


「なまえさん、」

 ふと近くで聞こえた声に咄嗟に顔を上げる。なまえは目を丸くして彼のことを見つめるばかり。蛇口から流れ出る水を止めることも、手元のスポンジを動かすことも、泡だらけの食器を洗い流すことも出来ずに、なまえは帰宅して間もない彼のことを見つめていた。

「あ、えっと、おかえりなさい……、」
「ああ、ただいま」

 真隣にいる彼の声が上から降ってくる。少し笑みを含んだ声音であることから、なまえは自分の素っ頓狂な反応を恥じらっていた。それを誤魔化すように手元を動かしてみたが、余計に居心地が悪くなり、なまえは離れ際のスーツの背中に打ち明ける。

「……こんなに早いだなんて思ってなかったから、その、驚きました」
「そうだろうとは思った。あまりにも反応が素っ気ないからな」
「本当に驚いただけですからね、」
「まあ、たまにはこういう日もある。驚かせてすまなかった」
「私は、北村さんが早く帰ってきてくれて嬉しかったから……」

 意に反して、素直な言葉が口を突いて出て行った。すまない、なんて言葉選びをするから、咄嗟にそんなことを口走ってしまったのだ。泡まみれの手で口元を押さえるわけにもいかず、口元は自分の不意打ちに狼狽えている。

「そうか。俺も久しぶりになまえさんに会えて良かった」

 すれ違ってばかりだからな、顔を見たいと思っていたんだ。と眉間の皺が僅かに浅くなるのを見てしまったなまえは余計に頬が熱くなるのを感じ、急いで手元に意識を戻した。しかし、何となしにもう一度スーツの背を追えば、静かに微笑む横顔が見え、心臓を鷲掴みにされた気分だった。

 それからなまえは残りの洗い物を済ませ、何気なく時計を見た。後片付けを終えたなまえがこの部屋を出る時間なのだが、今日は珍しく部屋の主が既に帰ってきており、どうしようかと考えていると、着替えを済ませた北村の一言でなまえはもう少しだけこの部屋に留まることを選択する。

「どうだろう。なまえさんさえ良ければ、一緒に夕食を食べないか」
「北村さんは大丈夫なんですか?仕事終わりで疲れてるんじゃ、」
「今日は早く帰されたんだ、疲れなんて些細なものだ」

 北村の甘い誘いを断るつもりは毛頭なかった。首を縦に振ると、北村も安堵した表情で、断られていたら気落ちしていたかもしれない。と彼らしくない言葉を口にする。滅多に聞くことの無い言葉の余韻を密かに胸に留めておきながら、夕食の支度に取り掛かろうとすると、後に続く足音が一つ多いことに気付き、その場で振り返る。自分より大きな背丈の彼を見つけ、手伝ってくれますか?と尋ねれば、ああ、任せてくれ。と穏やかな声音でそれが返ってきた。


 大人二人が揃えば、二人分の食器と盛り付けた皿がテーブルの上に並ぶのに時間はかからない。向き合うように並べられた食器にどこか気分が明るくなるのは、この時間を特別だと思えたからだろう。いただきます。と両手を合わせ、目を閉じる。自分一人だったなら、おざなりにしてしまう食事の挨拶も今この時だけは丁寧に済ませたいと思えた。真向かいの彼につられてみれば、一つ分かったことがある。
 綺麗な箸の持ち方で迷うことなく、それぞれの皿に手をつけ、しっかりと咀嚼をし、味わう彼の食事風景。その風景に自分の作った料理に対する彼の丁寧さを見た。料理など腹に入れば同じという言葉を耳にしたことがあるからこそ、よく味わい、丁寧に食してくれることに喜びを感じるのだろう。生きるために欠かせない食事を、すっかり慣れ切ってしまった食事を、淡々とではあるが大切にしてくれている北村の姿に。

「どうしたんだ、そんなに俺の方をじっと見て」
「いえ、なんでもないです。あの、美味しいですか?」
「ああ、なまえさんの料理はいつも美味い。この間、作ってくれた……」

 話は弾み、談笑を交えながら二人きりの夕食時は過ぎていった。仕事の忙しさを問い、気遣いながらも温かな食事を口に運ぶ。互いの近況を話し合っては今日こうして一緒に居られることを心から喜んだ。食後の片付けでは、台所のシンク前に立っているのがなまえで、空の皿を運んでくるのが北村だった。自分たちの皿を運び終えた北村は、代わろう。とシャツの袖を捲っている。その姿になまえは使いかけのスポンジを預け、湯を張りに風呂場へと向かおうとしていたのだが、北村の一言に足止めを食らってしまった。

「なまえさん、この後は帰るのか」
「えっ」
「いや、変な意味じゃなく、ただ時間が少し遅いと思ってな」
「あ、ああ、えっと、」
「俺は構わない。気にしなくていい」
「……その、今日は着替えとか持ってきてないので、ごめんなさい」
「そうか。なら、これが終わったら家まで送ろう」
「はい、ありがとうございます」

 それじゃ、お風呂沸かしてきますね。となまえは足早に風呂場へと向かう。何事もなかったかのように振舞ってはみたものの、内心穏やかではいられなかった。久しぶりに二人で過ごした時間の大切さに、出来れば先程の誘いも断りたくはなかった。しかし、あまりにも突然で、そんな『突然』に対応出来るほど、自分は用意の良い人間ではなかった。そんな状況で安堵している自分と落胆している自分がいることに、なまえは自分達の関係について考えていた。初々しいと言うべきなのか、あまり深く踏み込めないだけなのか。どちらか分からぬまま、なまえは背後で聞こえてくる水音に徐々に落ち着きを取り戻していく。