「今日は一緒に過ごせて嬉しかった。ありがとう」
「北村さんこそ、疲れてるのに家まで送ってくれて、ありがとうございます」
「なに、俺に出来ることと言えばこれくらいしかないからな」
「そんなことないですよ、」
「わかってるさ」

 夜の暗がりの中で北村は小さく微笑み、おやすみ。と言い残し、なまえの自宅を後にする。なまえはその姿が見えなくなるまで見送り、そしてようやく部屋へと入っていく。靴を脱いでいる間も、荷物を片付けている間にも思うのは、会えてよかったということばかり。北村も言っていたが、ここ最近は中々会えずにいた。久しぶりに見た北村は相変わらず、忙しそうで日々の疲労が垣間見えた。しかし、一緒に食事や会話をした時の、気が緩んでいるだろう笑顔にはやはり照れてしまった。普段は厳格である人間のふとした表情のずるさを彼は知らないのだろう。今までも何度かそのずるさを伝えようとしたが、結局は何も伝えられず、ただ自然と湧く好意的な感情に負けてしまうのだ。
 特に、あの控えめな笑顔が好きだ。それは時に困ったようにも、照れくさそうにも見えるあの表情が好きだ。荷物を片付ける手が止まってしまうくらいに、没頭してしまうほどなまえは北村に想いを寄せている。そう、想いを寄せているだけだ。

 実を言うと、今ははっきりとした恋愛関係ではない。なまえはそうであると信じているが、問題は北村だ。北村には何度か胸の内を明かしてはいるが、今回だけだぞ。と濁され、居座り、なだれ込み、今の関係が形成された。本気であればあるほど、北村は本気にしない。人をからかうのは良くないと説かれ、まるで自分の親のように暖かな目で見守っているのだと薄々察している。
 何がいけないのだろう? 年齢差? 職種の違い? まさか今になって好みだとは信じたくない。ぐるぐると不毛なひとりごとが脳内を駆け回る。いや、そんなことはないと脳内に渦巻く雑踏に見切りをつけると、鞄の中にある携帯の傍でそれは物静かに眠っていた。北村の家の合鍵。これは自分からではなく、北村から貰ったものだ。わずかにひんやりとする合鍵を握り締めれば、雑踏や不安は不思議と消えていった。その事実があれば、些細なことは忘れられる。大切な思い出の一つで、決して忘れられない出来事だったのだから。


***


「……これって、合鍵ですか?」

 北村から差し出されたそれを見たなまえは咄嗟に問い掛けていた。今、なまえの手の内にあるのは鍵だ。そしてなまえがいるのは、勿論北村の部屋だった。わざとらしいかもしれないが、意味を聞きたくのは当然だろう。本気にならない相手が差し出す合鍵の持つあらゆる可能性を感じ取ってしまった。

「いつも俺の帰りに合わせて来てくれるのは嬉しいんだが、最近は少し気が引けてな」
「そんな、気にしなくても」
「いや、女性が一人で夜道を歩くのは危険だ。なまえさんの身に何かあっては俺が困る」
「分かりました。それじゃあ、なるべくは日中に来ますね」
「ああ。本当なら俺が自分で済ませるべきなんだが」
「私が好きでやってることですから」
「ありがとう。いつも助かる」

 なまえは仕事が激務である北村の為、何か力になれないかと模索していた。しかし、北村は元が真面目で几帳面なところがあり、部屋の片付けに関しては手の出しようがなく、そして文句もない。だが、せめて食事だけでも作っておけば北村の為になると、この頃からなまえは既に北村の部屋を訪ねる日々を送っていた。自分の出来ることが相手を助けているのだと思うと、案外手間に思うことはなかった。

「それにこれならなまえさんも自分の時間が持てるはずだ。いつも俺ばかりにかまけてしまうのは良くないだろう?」
「そんなこと思ったことはありません」
「……なまえさん?」
「今度またそんなこと言ったら、私本当に怒りますからね」
「あ、ああ、わかった。すまなかった」

 北村の良かれと思った言葉になぜだか冷たさを覚えてしまい、なまえはそう口走っていた。彼の考えや気遣いを知らないわけじゃない。だが、咄嗟に出ていった言葉を悔やむように、ごめんなさいと口にした。すると、北村もなまえの言葉に思うところがあったのだろう。いや、俺も君の気持ちを蔑ろにしてしまった。すまない。と互いに謝りあってから、またいつもの時間の中へと戻って行った。受け取った合鍵を無くしてしまわぬよう、鞄の奥へ大切にしまい込んで。


 そんな懐かしい思い出に浸っている内になまえはやはりもう一、二言交わしておきたいと携帯を手に取り、メッセージアプリを開いた。そして彼の名で作成されたトークルームに入ると、家まで送ってくれた礼をひたすらに打ち込むばかりだった。