目の前に広がるたくさんの料理を前になまえは内心焦っていた。お気に入りの皿が何枚も並び、フライパンの元を離れた料理が乗り、その上には温かな湯気が立ち上る。一人暮らしの女性一人の三食を賄うには充分過ぎるほど、いや、寧ろ余りあるほどの量の多さになまえは急遽、予定を外出に切り替えた。行先は言わずもがな、北村の家である。
偶然にも立ち寄ったスーパーで、たまたま食材が安く売られており、それなりに買い込んだ後に作り置きとして調理を始めてみれば、予想以上の量が出来てしまったのが、事の経緯だった。それぞれ半分ほど保存容器に移し替え、底の深いトートバッグに詰め込んでいく。今回ばかりは押しつけになってしまうが、自分で食べ切れずに捨ててしまう方が勿体ない。先に北村にメッセージを入れたなまえは早速、家を出ようとしたのだが、ふと先日のことが思い出される。
──── なまえさん、この後は帰るのか。
これはこの間、偶然にも夕食を共にした日の北村の言葉だった。どうしてこんな時に、こんなことを思い出すのだろう。またそう言われるのを期待しているのだろうか。言ってくれれば嬉しい。嬉しいが、おかしくはないだろうか。言われることを期待して、たった一泊分の用意を持っていくのは。次から次へと思考が言葉となり、激流の渦と化す。遠慮、期待、迷惑、強引、様々な感情がなまえを足止めする。収集がつかないと思われたその時、メッセージの受信音が聞こえてきた。
『また今夜も一緒に夕食を食べないか。もし、なまえさんに予定があるなら、そっちを優先してもらって構わない』
暗転していた携帯の画面に北村からのメッセージが表示される。今まで飛び交っていた雑音が消えていく瞬間だった。嵐が過ぎ去ったように静まり返った思考で、なまえは肩に掛けていたトートバッグをテーブルに置き、こっそりと自分のクローゼットへ近づいた。誘われるばかりに慣れてしまってはいけない。進展のない関係を憂いているのは、どちらかと言えば自分であるくせに、その機会を相手に委ねてしまおうなんて間違いだったのだ。
一つ息をつく。大丈夫、いつも通り。ただ勿論、相手のことを配慮した上で自分から持ち掛けてみる。好きな相手の傍にいたいと思うのは普通のことで、進展のない関係なら余計に大切なことだ。これで何か変わることもあるかもしれないし、今回がダメでもまた次にシフトしていこう。なまえは前向きな言葉を敢えて口に出しては、自分に言い聞かせていた。たった一泊分の用意をこっそりと別の鞄に忍ばせ、なまえはようやく自分の家を後にした。
「なまえさん、どうかしたのか」
なまえは自分の差し込んだ鍵がそれ以上に回らなかったことや、流し台の正面にある窓ガラスが多少開いていることに違和感を抱いていた。もしかしたら、生活音も少しは外に聞こえていたのかもしれないが、些細な疑問だけで中に入ったなまえには部屋の主と出会すという想像までは出来なかったのである。
「いつもは居ないからな、なまえさんが驚くのも無理はない」
「ごめんなさい、お休みの日にまで押しかけちゃって」
「構わないさ。さあ、上がってくれ」
先に荷物を受け取り、台所へと運んでくれる北村について行く。普段は仕事着であるスーツ姿を見ていることが多いせいか、休日のラフな姿が新鮮に感じられ、なまえはいつもと違う背中を見つめていた。明るい時間の明るい部屋に、ゆったりとした装いで北村がいる。彼にとっては当たり前の景色が、なまえにとっては真新しく、また同様に特別でもあった。
「しかし、今日は随分とたくさん作ってきたな」
「えっと、まあ、その、色々考え事をしてたら、つい」
「考え事、か。それにしては、俺の好きなものばかりだが」
「ぐ、偶然ですっ!」
偶然、とは言い難いことばかりが続いているのは、自分でも分かっていた。本当の意味での偶然はスーパーに立ち寄ったことのみで、あとの出来事はすべて偶然ではなかった。確かに考え事はしていた、それは北村が持ちかけた先日の誘いについてだ。様々なことが脳裏を過ぎっては誘いを断ることになってしまった結果を悔やんでいる。だから、意図せず自分が北村の好物を作り過ぎてしまったことも恥ずかしくて仕方ない。いつまでも自分があの日のことを考えてると知られた日には、いよいよ合わせる顔がない。
「どれも美味しそうだ」
トートバッグの中を覗く北村はいつにも増して穏やかな表情だった。そのような顔を見てしまっては、もうこれ以上感情を拗らせてはいられず、その隣に立ち、トートバッグの中身を片付けることにした。きっとどれも美味しく出来上がっているはずだ。なんせ、彼のことを考えて作った品なのだから、きっと彼好みの味付けになっていると、なまえは中身のたくさん詰まったプラスチック容器を冷蔵庫の隙間を埋めるように片付けていった。
「なまえさん」
急に名を呼ばれて振り返ると、北村が驚き半分、緊張半分の声音で問いかけてきた。先程の穏やかな装いとは違い、何故か妙に堅い雰囲気だ。
「今夜は、泊まっていくのか」
その一言でなまえは自分の持ち物を全て北村に預けてしまったことに気付き、次の言葉を上手く編めずにいる。僅かに視線をトートバッグに向ければ、その奥に自分が用意した一泊分の荷物の入った鞄が置かれていた。まともに話し出すことも出来ないでいると、北村が先に口を開く。
「この間は酷く残念そうにしていたからな」
こんな狭苦しい部屋で良ければ、泊まっていけばいい。と中身のなくなったトートバッグを畳んで鞄の近くに置いた。
「折角の休日なのに、迷惑じゃありませんか」
「元々、夕食に誘っていたんだ。それに帰るのが明日に延びるだけだろう?」
「気を遣わせちゃうかもしれませんし、」
「今日はなるべく力を抜いて過ごすつもりだ」
「えっと、」
「なまえさんはどうしたい?」
わたしは、と続けたところでようやく踏ん切りがついた。それじゃあ、今日は、その、お邪魔します、ね……?と変に問いかける語尾になってしまったが、北村は小さく笑い、ああ、ゆっくりしていってくれ。と返した。