真っ青な暗がりの中でなまえは見ていた。自身の欲になんとか理性を働かせ、踏みとどまっている男の姿を。肌を何度も何かがなぞっていく感覚に、体が熱を帯びていくようだった。きっと彼も同じ気持ちだ。こんな夜は初めてだった。彼も偶然、触発されただけなのだ。だが、なまえの胸の内は複雑だった。一晩一緒に居られるだけで満足していた自分が、その先を求めていると知り、彼により踏み込んで欲しいと願っており、体の熱を明かしてしまいたいと思っている。密かに盗み見た北村の姿になまえは動揺していた。


***


 その日の日中、北村が休みという事もあり、二人はゆっくりと過ごすつもりだった。しかし、一度北村が家事を始めてしまえば、なまえもその手伝いをし、買い出しに行くとなれば、共に外出し、気が付けば既に夕暮れ時。北村曰く、いつもの休みとあまり変わらない過ごし方だったと苦笑していた。折角、なまえさんが来てくれているのに。と零す北村になまえは今日は特別な一日だったと素直に打ち明ける。
 なまえの日常において、決して見ることの出来なかった北村の休日風景になまえは、ようやく生活感を味わえたような気がしたのだと告げた。何故なら、なまえがいつも北村の部屋を訪れると、何もかもが礼儀正しく揃っており、世話の焼きようがなくて困っているのだから。すると、なまえさんに他の苦労はさせたくなくてな。と不意に胸をときめかされ、暫くは北村の顔が見れなかった。

 それから二人は夕飯の支度に取り掛かる。今夜は北村が食べたいと言っていたおかずを数品と、即席で作った味噌汁。炊けて間もない熱い湯気の漂う白米を茶碗に盛り、いただきますと感謝を添える。手にした箸でそれぞれが好きなものを口へと運んでいく。正直、何から食べるべきかいつも迷ってしまう。しかし、北村は迷うことなく食べ進めていくのだから、本当に真面目な性格だと思った。だから、なまえはそれとなく聞いてみることにした。自分は食事をとる時、いつもどれから手をつけるか迷ってしまうと。なまえの話題に北村が返した言葉は意外なものだった。

「俺も実は迷いながら食べているんだ。食事はバランス良く、と言うが、本当はこのおかずと米を延々と食べていたい」

 いいんじゃないでしょうか。そ、そうだろうか。ええ、私はそれでも良いと思います。だって、折角のご飯ですから。
 なまえの一言に軽く頷いた北村が多く盛られた茶碗をカラにするのに時間はかからなかった。次から次へと口に運ばれて、皿がどんどん綺麗に片付いていく様に見蕩れていると、なまえさんは食べないのか?あまり食べていないようだが。と問いかけられ、わ、私も食べますから、ちょっと残しておいてください……!と慌てて箸を伸ばした。もぎゅもぎゅ、と口に詰め込んでいくと、もう少しゆっくり食べた方がいい。大丈夫だ、ちゃんとなまえさんの分も残してある。と言い聞かせるように笑う北村になまえは頬が熱くなっていくようだった。

 二人は夕食を済ませた後、後片付けも済ませて互いに自由に過ごしていた。浴槽に湯を張っている間、なまえは入浴の支度に、北村は少し早い明日の支度に取り掛かる。まるで一日があっという間だった。確かに同じ時間を過ごしたのにも拘わらず、もう夜を迎えたのだ。とても短く、早く感じる時間の流れに、明日の朝を迎えた時もこう思うのだろうか。そう考えると少しだけ寂しくなった。だが、今日だけで彼の知らない姿をたくさん見ることが出来た。それは嬉しいことでもあり、驚きでもあり、彼を慕う気持ちを加速させることでもあった。今夜、たった一晩だけでどうにかなってしまいたい訳じゃない。
 ぼんやりと考え込んでいると、湯が沸いたと北村が声をかけてきた。お先にどうぞ、と譲ってはみたものの、やはり自分を優先されてしまい、遠慮がちに脱衣所へと向かった。着替えとタオルを傍に置き、一枚ずつ衣服を脱ぎ去っていった。暖かい湯船に浸かれば、たくさん考えてしまう頭を休められるかもしれないと、なまえは浴室の漂う湯気の中に紛れていった。


 明日、仕事を控えている北村のことを考え、なまえは早々に入浴を済ませてしまった。体から心地よい熱が抜け切ってしまう前に、体の水気を拭き取り、素早く部屋着に着替える。濡れそぼった髪は部屋でゆっくり吹き上げるとして、リビングで待つ北村に今度はなまえが声をかける。

「北村さん、次どうぞ」

 なまえの声に反応し、振り返った北村はこちらを数秒ほど見てから、ようやく相槌を打った。その視線の理由が分からなかったが、なまえは北村の傍にやってくると、静かに腰を下ろした。

「お風呂、冷めちゃいますよ」
「ああ、そうだな。すぐに入る」
「……あ、北村さんがお風呂に入ってる間に、お布団敷いておきましょうか?」
「いや、それならさっき俺がやっておいた」
「え、二人分をですか?」
「だから、なまえさんは寛いでいてくれ」
「言ってくれれば、私も自分の分はやったのに」
「フッ、なまえさんに頼むまでもないさ」

 冷蔵庫の中のものは好きに飲んでくれて構わない。と言い残し、北村は脱衣所に消えていった。風呂上がりということもあり、毛先の水気をタオルで優しく拭き取っていると、脱衣所から微かに衣服の擦れる音が聞こえ、不意に恥ずかしくなった。こういうのは聞くものではないと、寝室へ逃げ込む。すると、そこには先程北村が言っていた通りに布団が二つ、真横に並べて敷かれていた。どちら側であってもいいが、横を向けば眠った北村の姿があるのだろう。そう思えば、今更だが今夜はしっかりと眠れるだろうかと不安になった。
 北村不在の部屋、二つ並んで敷かれた布団になまえは飛び込みたい気持ちに駆られる。しかし、まだ髪を乾かしていないのと、北村がいないのとで布団に飛び込むのはもう少し後にとっておこうと思った。