北村が入浴を終えて出てくる頃には、なまえも既に髪を乾かし、一人で本を片手に静かに過ごしていた。なまえの手元にある本は北村が以前購入して読み終えたもので、彼女がそれを読んでいる姿に目が離せなかった。手前の髪を耳にかけ、視線が上から下へと流れて動いていくその横顔を見ていた。水気の抜けきらない髪をタオルで拭きながら、普段は上げている髪が今は下がっていて、額や瞼に触れているのを煩わしく思わないほど、読書をするなまえに見蕩れていた。
「北村さん、もう出てたんですね」
「ああ、ついさっきな」
「……あ、もしかしてこの本ですか?」
こちらの視線に気付いたなまえは、ごめんなさい、まだ読み終えてませんでしたか?と広げていた本を急いで閉じ、他の本が並んでいる棚に戻そうとする姿を見て、北村も慌てて否定する。いや、俺はもう読み終えている。だから、なまえさんが読んでいて大丈夫だ。と駆け寄ってきた北村に、それじゃあ借りてもいいですか?続き、気になっちゃって。と訊ねた。なまえの頼みを断る理由などなく、一度頷けば嬉しそうに破顔するなまえがいた。
「北村さんって、髪下ろすとそういう感じなんですね」
「いつもは髪を上げているからな。なまえさんからしてみれば、物珍しいかもしれない」
「なんか別人みたいです」
「そう言うなまえさんの素顔も、いつもとは違うようで新鮮だ」
「……お化粧してませんからね、へへ」
あんまり見ないでくださいよ……!恥ずかしいですから。そうか?あまり恥ずかしく思うところはないと思うが。またまた、そんなこと言って。
優しい言葉をかけられる度、なまえは体が熱くなっていくのを感じた。照れているとは分かってはいるが、上手く頬や体の熱を逃がしてやれない。それなのに、北村はこちらの事情も知らず、次から次へと心を揺さぶるようなことを声に出してくれるのだ。
「なまえさんは化粧を落とすと、少し幼く見えるが、俺はどちらのなまえさんも良いと思う」
至って真面目で、至って下心のない、至って普通な一言だった。だが、それがなまえにとっては特別で大切なものだった。誰かに良いと言われるのは嬉しいが、相手が北村であれば言葉の重みが変わってくる。今日は勇気を出して良かったのだと。少しだけうじうじと悩んでしまったが、自分でも踏み出してみて良かったと思う。なまえは北村の言葉を忘れぬよう、しっかりと受け止め、自然と笑いかけた。
***
視界はまだ闇に慣れていないせいで、真っ暗のままだ。北村の用意してくれた布団に寝そべり、瞼が自然に閉じていくのを待っている。あの後、北村が髪を乾かし終えた後でも、二人は会話に興じていた。なまえが読んでいる本のことや明日の予定、なんとなくでつけたテレビのニュースのこと。だが、ゆっくりと迫ってくる明日に抗うことは出来ず、午後十時を過ぎた頃に二人は就寝した。
だが、なまえは想像の通り、眠ることは出来なかった。今も尚、時折目を開けては眠れないことを痛感してばかりだ。隣からは穏やかな寝息が聞こえてくる。北村はぐっすりと眠ってしまったらしい。一度寝返りを打つ。すると、布団をしっかりと肩までかけて眠る北村の姿があった。大きな膨らみに頭だけが一つ、ちょこんと出ている。眠れないのは自分だけなのだと思うと、このままじゃいけない気になり、なまえも無理やり目を閉じた。
目を閉じてから、どれくらい経ったのだろう。瞼の闇にぼうっとすることはあれど、眠りに落ちていくにはまだ眠気が足りず、もう一度寝返りを打つ。フィットしない腕の位置を変えていると、背後から物音が聞こえてきた。ごそごそと何かが擦れる音に静かに吐き出された大きな溜め息。背後の住人は恐らく北村だろう。眠れていないことが北村にバレないように、なまえは極めて静かに寝息を立てていた。
すると、まずは頭を撫でられた。あの大きな手が慎重に何度も触れる度、緊張で飛び起きてしまいそうになった。しかし、ここで飛び起きてしまっては変に気まずくなってしまうかもしれないと、懸命に耐えていた。頭から大きな手が離れたかと思うと、次は何もされなかった。何もされなかったと言うと、そのまま満足した北村が自分の布団に戻って行ったように捉えてしまうかもしれないが、そうではなく。
何も起きなかったことに薄らと目を開けてみた。不自然ではないように。だが、目の前に広がる光景になまえは密かに驚いていた。北村はこちらを見下ろしてばかりで、何もしようとして来ない。まるで何かを越えてしまわぬように堪えている。あのような表情は今まで一度も見たことはない。なまえは枕元に置かれた手に触れてしまおうかと思った。しかし、懸命に堪えている北村を唆すような真似は出来ないと強く瞼を閉じた。そうしている内に、北村は自分の布団に戻って行ってしまった。最後になまえの乱れた布団をかけ直し、手をやんわりと握ってから。
彼は頭を撫でた後、何をしたかったのだろう。物分かりの良くないフリなら得意だ。しかし、彼の表情を見ているからには、そんなとぼけたことなんて出来なかった。何を思ってくれたのだろう。どうして触れてくれたのだろう。何を堪えていたのだろう。どうしてやめてくれたのだろう。余計に眠れない。横目で布団を被って眠る北村の背中に、文句のひとつも言えないのだ。そして、自分自身も同じように彼には迫れない臆病者なのである。