気を失うように眠っていた気がする。いつ眠りに落ちたのか分からない、そんな眠りだった。瞼を開けて、まず思うのは昨夜の出来事だ。自分の頭を愛おしそうに撫でる姿には心底、驚かされた。だが、その後には意外さが待ち受けていたのだ。何かに抗うように自分の布団へと潜り込んだ北村に、迫れない臆病な現実を目の当たりにしてしまった。それはもちろん、なまえ自身もそうであった。もし、あの場で声をかけることが出来ていたら。もし、あの場で自らが迫ることが出来ていたら。今日という日の始まりは、どこか違っていたのかもしれない。
 しかし、朝はやって来た。淡白で肌寒い静かな一日の幕開け。温もりの懐から出て行く気になれず、またぼんやりと昨夜のことを考えようとしていると、台所から包丁の鳴る音が聞こえた。鳴ると言うのは適した表現ではないかもしれないが、まな板と包丁が干渉し、何かを切っているだろうあの音が聞こえてくるのだ。ふと隣の布団を見れば、部屋の片隅に小さくまとめられており、今台所に立っているのが北村だと知る。なまえはその音に誘われるように北村のいる台所へと歩いて行った。


「なまえさん、おはよう」

 ワイシャツ姿の背中がこちらを向いた。袖は腕の辺りまで捲られ、まな板には包丁と数種類のフルーツが置かれていた。これがいつもの北村の朝なのだろう。鼓動がまた乱れている自分とは正反対にとても落ち着いた様子で、昨日のことが夢のように思えてくる。

「おはようございます、北村さん」
「今ちょうどミックスジュースを作るところだ」
「なにかお手伝いすることはありますか」
「いいや、大丈夫だ。俺一人でなんとかなる。だから、なまえさんはゆっくり支度していてくれ」

 いつもと何ら変わらない様子の北村を見て、すっかり正気に戻されていた。今まで悪いものに取り憑かれていたのかもしれないと洗面所に向かい、冷たい真水で寝ぼけた顔を洗うのだった。だが、ここで安堵したのはなまえ一人ではなかった。台所でまな板に向かっている北村も同様の心境だった。昨夜、眠るなまえに迫った事実が、北村に後ろめたさの影を落としていた。魔が差したなどという自分に甘い言い訳を決して許さず、もう一度理性の紐を固く結び直す。もう二度とあのようなことがないように、と。


***


 食卓に並んだのは二人分の食器。朝食ということもあり、控えめだがしっかりと彩りの考えられた洋食のプレート。そして、北村が数種類のフルーツと牛乳をミキサーにかけて作ってくれたミックスジュースが添えられていた。二人きりの朝食、きっと彼はこんな朝を毎日繰り返しているのだろう。以前、話してくれた健康の秘訣と対面し、一口流し込んでみる。大人になってからミックスジュースを飲むことなど滅多になかったからか、まろやかで優しい甘みの柔らかな味わいになまえは北村を見た。北村は朝から目を丸くしているなまえの顔を見て、首を傾げた。

「口に合わなかっただろうか」
「……そんなことないです、すっごく美味しい」
「そうか、良い反応ということか」
「北村さんは毎朝、こんなに美味しいもの飲んでたんですか?」
「ああ。そんなに気に入ってくれたなら、後でレシピを送っておこう」
「ありがとうございます……!」

 気まずい夜のことはすっかり塗り替えられていた。温かい朝食を胃に収め、ささやかな朝は過ぎて行く。食器の後片付けは自分がやるからと、なまえは北村の分の食器を流しに運んでは、水気を含んだスポンジを手に取った。朝の水の冷たさは特別だ。起きてからあまり時間が経っていないこともあり、いつもより冷たく感じられる。北村はなまえの厚意に甘える形で、最後の身支度を整えていた。あと少しで家を出るらしく、なまえは急ぎながら汚れた食器を片付けていった。骨の奥がじんわりと痛むくらいに冷えた手を拭き、台所で時間を待つ北村に目配せをした。

「俺もそろそろ出よう」
「はい。こっちも丁度、終わりましたから」
「見送りする必要は……」
「だって、折角居るんですし」

 さ、玄関行きましょう。と北村の背中を押しながら、なまえは二人で玄関先へと向かう。またいつもと変わらない一日が始まるのだ。昨夜のことはただの夢だったと割り切られて。不純な動機で北村の傍に居たくなかった。確かに深まる何かがあるのなら、深めるに越したことはないが、北村の意志を尊重しないで勝手なことはしたくない。独りよがりでしかないのなら、このままで良いのだ。いつかきっとこの口で伝えられる機会が来るはずだと信じて。
 もどかしいものだとは日頃から痛感させられている。恋人達の進展と言うのは、自分達のように遅い歩みではないだろう。しかし、自分達はこうでなければ先に進めない。常に確かめながら、尊重し合い、進んでいかなければならない。出来ることなら、そうでありたいのだ。


「それじゃあ、行ってくる」
「はい」

 結ばれていない関係を憂うことはある。このままで良いのか、とも。だが、僅かでも何か変わった筈なのだ。自分や北村にとって、何かが。座り込んだ背中がゆっくりと立ち上がり、出発の時であると告げている。隣に並んでいた革靴はもうない。自分の靴がぽつんと取り残されているだけだ。

「忘れ物はありませんか?」
「ああ、大丈夫だ」
「えっと、じゃあ……」

 いってらっしゃい。と続け、外まで見送ろうとすれば、ここで大丈夫だと北村の優しさに足止めされる。最後の戸締まりを頼んでいいか?と聞かれ、なまえはもちろんと頷いた。そして、踵を返した背広を目で追いかければ、ゆっくり静かに扉は閉められた。行ってしまった、自分がああだこうだと悩んでいる内に。一人にされてようやく体の力が抜けていく。
 慣れないことをしてしまった。冷静を装い、彼に下手な心配をさせたくなかった。昨夜のことで動揺しているとなれば、北村を動揺させてしまう。仕事に差し支えが出ると思ったのだ。寝惚けていたかもしれないし、意識があった上でそうしたのかもしれない。ただ図らずも迫られたという事実がなまえの胸に浅はかな期待を植え付けていた。

 女は男と正式な恋仲になりたいと強く思い、男は現状維持を続けて来た関係にヒビを入れかねない行為だと自分を戒めていた。それが彼女に抱いた恋慕であるとも知らずに。だが、自分の行動を突き詰めて行った先に彼女への思いがあることを、男は無視出来ないでいた。もしかしたら、自分はもう昔のような自分ではないのかもしれないと。