北村は決して、魔が差したという言葉に甘んじたくはなかった。だが、あの日。なまえを自宅に泊めた日、北村はいつもより近い距離のなまえと過ごし、居心地の良さを常に感じていた。彼女は、良い人だ。性根も優しく、気遣いも出来、配慮に欠けない、良い人だ。だからこそ、この関係は狡いもので一方的に享受している自分ではいけないとさえ思うことがある。いけないと頭で考えていながら、現実はそうならない。関係を切りたい訳ではなく、彼女のことを思うとやるせないのだ。
出会いはいつものように神室町の警らに当たっている時のことだった。繁華街と言うのは、多少ガラの悪い人間が集まりやすい場所で、彼女はその連中に足止めされて困っていた内の一人だった。毎日、そう言ったトラブルは起きる。この神室町にいる限り、無縁のものにはならない。いつもと代わり映えしないやり取りだった。彼女と連中の間に入ってやり、穏便に事を済ませる。いつもの事だった。しかし、彼女だけはいつも通りには済まない相手だった。
最初は部下から神室署にみょうじなまえという女性が訪ねてきたと聞き、次は街中で偶然出会い、いつの間にか『その次』を取り付け合うようになった。彼女にはよく誘われたものだが、自分だって都合がつかなければ、別の日程を提案したりもした。その時から続く居心地の良さは変わらない。今もそれは胸の内をじんわりと温め、大切とは何かを静かに説いてくれる。
説いてくれていたと言う割に、状況は一瞬にして変化してしまった。幼さの残る素顔を目にし、寄り添うような生活を共に過ごし、無防備な姿を前にして、自分は心変わりを止められなかった。まるで家族のようだと思っていた相手に情欲を抱いた時の罪悪感を知っているだろうか。ふと一線を越えてしまいそうになる理性の脆さを痛感したことはあるだろうか。彼女が背伸びをする度にたしなめ、ありのままで良いと説くべき人間が自分本位に彼女をどうこうして良い訳がない。
正直、酷く動揺し、気落ちした。狡いという関係では済まされないと確信すらしている。今までも同様に何度も物事を天秤にかけてきた。しかし、どうしても釣り合った試しがないのだ。北村の眉間の皺は人知れず深くなる。今なら、まだ『狡い』だけの関係に留まれるのかもしれないと思うと、なまえに告げなくてはならないことが浮かんできた。想像するに、きっと彼女はいい顔をしないだろう。
***
「なんで、そんなこと……。しかも、そんな、急に、」
彼女は心底、悲しいと言った声で問い掛けてきた。その声の弱さが耳に鋭く突き刺さり、胸が苦しくなる。前にも似たようなことがあった。しかし、その時は互いに謝り合い、事なきを得た。だが、今回はそうはいかなかった。なだれ込むつもりは毛頭ない、そんな不誠実な関係の結び方などあってはならない。日に日に増していく思いに北村は遂になまえに将来の話を持ちかけた。
隣に居るのが当たり前になった今、やはり考えずにはいられない。まずは思いつくだけでも、年齢の差、生活のリズム、苦労や不自由なことの多い業種。彼女に負担をかけないなんてことは決して出来ない。いつまでも『狡い』ままでいたくなかった。なまえは俯いて話を聞いている。
「正直、もっと良い相手がいるんじゃないのかと思う」
たった一言を口にしたところで気付いたことがある。初めて、胸が焼けるような痛みを覚えた。本心、ではないのだろう。だが、彼女のことを尊重したいと思えば、苦ではない。なまえはまだ黙って話を聞いている。
「少し先のことを考えていた。だが、このままじゃなまえさんに苦労ばかりをかけてしまう。……それなら、俺ではなく、もっと大切にしてくれる相手を、」
「聞きたくありません」
「……なまえさん、」
涙混じりの強がった声音に北村は言葉を失っていた。彼女の為だと並べた綺麗な響きの言葉達は空虚に消えていった。下瞼いっぱいに溜めた涙が次から次へと止めどなくこぼれ落ちていく。しかし、なまえの表情は悲しさよりも怒りの方が強く感じられた。彼女は今、自分の言葉に怒りを覚えているのだ。こうなると分かっていた筈だった。こうなると分かっていて、告げる覚悟を決めたつもりだった。だが、現状は想像以上に苦痛に満ちている。
「私は、北村さんだけを見てきたつもりです。でも、」
分かりづらかったですか……?
遂に彼女から怒りの感情が消えてしまった気がした。次に彼女の顔を見た時、酷い後悔に苛まれたのだ。何を口にしているのか、分かっていないのは自分ではないかと。しかし、過ぎた時間を巻き戻す術はない。出て行った言葉を飲み込んで胸に戻すことも出来なければ、彼女が手にした言葉でつけられた傷を塞ぐことも出来ない。だが、何かを言わずにはいられなかった。このまま終わりにしてしまっていいはずが無いと。何でもいい、取り繕う必要があるのだと。
「ごめんなさい、私ばかり浮かれていて」
心が裂けそうな言葉と共に、なまえは鞄からこの部屋の合鍵を取り出すと、近くのテーブルにそっと置き、出て行ってしまった。後を追わなければならないのは重々承知だった。だが、彼女の酷く悲しい顔が網膜に焼き付いて消えてくれない。足を取られていた。追いかけてどうなる。彼女はここにいるのが、自分といるのが辛くて出て行ったんじゃないのか。頭に溢れる雑踏に飲み込まれてしまう前に、瞳はテーブルに置き去りにされた鍵を見た。そこから先はごちゃごちゃと考えてばかりで何の役にも立たない思考を捨てて、家を飛び出した。
駆け出す体に夜風が鋭く突き刺さる。こんなに凍えそうな夜の中を彼女一人で行かせたのか。例え、どんなに深く突き刺さろうと北村は数分前の彼女を追っていた。息が切れるのもお構い無しに、離れていった彼女に追い付きたい一心で。しかし、どこまで行っても彼女の姿は見えなかった。
結果として北村はなまえに追い付くことはなかった。その代わりに見上げた先にある窓から部屋の明かりを確かに見た。彼女の住所は分かっていた、以前、遅い時間に彼女を送って行ったことがあったからだ。彼女の無事が確認出来ればいい。今はそれだけでいいと自分に言い聞かせ、北村は駆けて来た凍える道で踵を返し、もう一度足跡を縫うのだった。