悲しかった。それはとても言葉じゃ言い表せないくらいに深く、失意のどん底だった。何度も悲しみがぶり返しては取り乱して泣いた。かつての日々を夢に見た日にはあの部屋に置いてきた合鍵を求めた。弱さが同居する一日を数日間過ごしてみて、落ち着き始めた気持ちがある。あの関係を狡いものだと罵る気はなかった。あの関係でしか得られないものはたくさんあったのだから。
今の自分は傷口を深くしてしまわないように、それから目を背け、ただ無理やりに背伸びをしているに過ぎないのかもしれない。しかし、いつまでもこうして塞いでいられないのが現実だ。終わってしまった、のだと思う。今となっては、とても大切にされていたと実感している。だが、虚ろは影を潜めてはくれず、ただ自分の後ろを数歩離れて着いてくるばかりだ。
まずは、自分の為に出来ることを探した。雑多に溢れかえるこの世の中で、自分の傷を癒せるものを見つけようと考えた。誰かに治してもらえるなら、その方がいい。だが、誰かに頼って傷を塞ぐようなことはしたくなかった。過ぎってしまうから、一番傷を塞いでほしいと願う相手のことが。ただ単に遠ざけたかったのだ。だから、未だに携帯に届いたメッセージに返す言葉が見つからなくて、見つけられなくて、そのままにしている。
──── すまなかった。
たったそれだけの言葉に対して、自分がどのように返していいか分からないのだ。今までも何度もそのメッセージと対面してきた。今日こそは何か一言返せるかもしれないと。しかし、北村の言葉と向き合おうとする度に頭が真っ白になる。携帯のキーボード画面すら開けず、その六文字を眺めては何も出来ずに時間だけが流れていくことの繰り返しだ。本当に終わってしまったと思う瞬間だった。それ以前の言葉を遡れば、血の通った暖かな言葉ばかりが羅列していて、余計に辛く苦しく感じた。
だが、現実は皮肉なもので、そう簡単には傷を癒してはくれなかった。初めは気心知れた友人に会ったり、趣味に付き合い、あちこちに出歩いてみた。確かに満たされていたはずなのに、ふと一人になった時、それは穴が開いたかの如く、萎んでしまう。異性と接している時もそうだ、何気ない会話の中で彼を探してしまう。何故?相手は全くの別人だと言うのに。それじゃあ、相手に失礼だからと異性と過ごすのは暫くはやめようと思った。
こんなの、あんまりじゃないか。自分で自分の傷を癒そうと駆け回っているのに、全てが空回りし、何もかもが彼に直結してしまうだなんて。終わったんじゃないのか、彼とは。終わりに、
「……したくない、」
咄嗟に口元を手で覆った。自分は何を言っているのだろう。もう数日間も会っていなければ、連絡すらとっていない。そんな相手をまだ大切に思う人間がいるとは思えない。これは未練だ、上手く飲み込めなかった諦めの副作用だ。枯れない、涙腺から溢れる温かい涙も枯れてはくれない。感情的でいたくなかった。すっぱりと忘れて次に進みたかった。でも、それが出来ない。理由は分かっている。自分が一番、痛いほどよく分かっている。
濡れた指先で、あのメッセージを開いた。じわりと涙が溢れて止まらない。伝えたい言葉ははっきりと胸の内にある。あるのに、いざキーボードに触れる指先は臆病なまま、紡いだ言葉を容易く消し去ってしまう。紡げなかった言葉は唇を裂いて、声と共に出て行った。今や見るも無残に爛れてしまうほど、心を寄せていたのだ。あの北村の言葉に悪意はない。勿論、理解している。だが、胸を深く切られたように痛むのも事実だった。軽く笑い飛ばせる性格ならば、どれほど良かったことだろうか。自分のとった行動だけが今の自分への答えだ。
なまえは沈んだ空気から逃れたくて、外へ散歩に出かけようと靴を履いていた。陽の光を浴びてゆっくり深呼吸すれば、きっと悲しみが薄れるだろうと。踵に指を通し、ぼんやりと正面のドアを見つめていると、何かチラシのようなものが目に入った。そう言えば、ここ最近は郵便受けをまともに見ていないかもしれないと、ドアに備え付けられた郵便受けの中を覗き込む。案の定、求人広告や無作為にポスティングされたチラシなどがそれなりに溜まっており、なまえはまずこれらを処分してから散歩に出かけるつもりだった。
カラン、と金属音が郵便受けの中で聞こえてくるまでは。興味に手を引かれ、深く郵便受けの中に指を忍ばせる。指先に触れる小さな金属板を掴み取ると、なまえはそのまま動けなくなってしまった。今にも引き裂けそうなほどの衝撃だった。今日までにかき集めた悲しみだとか、諦めだとか、自分に都合のいいものばかりで固めた殻にヒビが入る。手のひらの上にあったのは、いつの日にか置き去りにしてきた合鍵、そのものだった。
一体、いつから。と考え出してすぐ、なまえは必要最低限のものだけを持ち、手にした広告を床に投げ捨てて、家を出た。これがどういう意味か、分かるだろうか。何故、彼の家に置いてきた筈の合鍵が、あの郵便受けに入れられていたのか。もし、自分が気付いていなかったら、彼はどうしていたことだろう。途端にあの大きな背中が恋しくなる。ふと、笑った時に下がる目元を思い出す。親しい間柄のくせに、かしこまって『なまえさん』と呼ぶ、彼に会いたくなってしまったのだ。
今になって罪悪感が湧いて出た。悪戯に過ごした時間の重みが変わる。自分で塞げるはずのない傷を塞ごうとして、本当は何もしていなかった。塞ぐつもりで、ただ彼から目を逸らしていただけだった。自分で自分の傷を深く抉っていただけだった。彼の方が自分にしっかりと向き合ってくれていた、今頃になって思い知らされるとは。自分の馬鹿さ加減に泣きたくなる。しかし、それより先にやらねばならないことがある。あの日の返事を、北村に返してやらなければならない。あとはそれから二人でゆっくり決めればいいと、なまえは駆けていく。
それはまだ日の高い時間のことだった。