『ごめんなさい、私ばかり浮かれていて』

 彼女の言葉が甦る度、打ちのめされる心境があった。それは警らの途中で紛れ込んだ喧騒の中で、一人きりの部屋で、薄灰色に色付いた朝の目覚めで。しかし、目に見える自分は全く摩耗していないように見える。自分の目が曇っているのか、長年の経験でそう言った弱みを隠すのが上手くなっているだけなのかは分からない。もし仮にそうだとして、完璧なものなど存在しないのだと痛感させられる。
 北村は自身に起きた変化を日々、受け止めていた。その中で一番胸に迫ったのは部屋の色味が変わったことだった。住み続けて長い部屋の色彩が今更変わってしまうことなどあるのだろうか。部屋に置かれた家具も、窓から差し込む朝日や夕日、窓の外に広がる世界に何も変化は起きていない。それなのに、何かが足りない。どこか色褪せて見えるのは、この部屋の大部分を占める大切な色味が抜けてしまったのではないかと思うのだ。言うまでもない、北村はつい最近『日常』が欠ける出来事があった。

 彼女の笑顔を見ることは多くあれど、泣き顔はあの時初めて見た。冷たい風に吹かれて指先や肌から熱が奪われていくような感覚を彷彿とさせる悲しい表情だった。彼女に追い付けなかった夜の刺す風より、彼女の悲しみが深く突き刺さる。置き去りにされた繋がりは、かの日の遺物であった。どうすることも出来ず、膨大な時間の流れに任せ、風化するのを待つ。北村には、彼女が置いていった合鍵が視界に入る度、いたたまれなさに駆られた。かと言って、自分に何が出来る。いたたまれないとは感じていようと、強い何かに突き動かされようとも、遺物から目を逸らすこと以外に何も出来ていない。
 そして、現実は皮肉なものであった。何物にも代えがたい何かを抱えた時、自分を取り巻く環境は無慈悲に変化してしまう。彼女に時間を割くべきだと答えを導き出すのを待っていたかのように、目の前の現実は自分を忙殺しにかかるのだ。前から多くの自由を約束された仕事ではないと分かっていたが、彼女が部屋から立ち去ってしまった翌日からその傾向は顕著になっていった。すると、割くべきだった時間はどこへ行くのか。それは、いつになるか分からない明日へと虚しく先延ばしにされるばかりだ。朝を迎え、夜に沈み、また朝を迎える。やはり、その時間のどこにも彼女の姿は無いのだ。


 だから、北村は一つ賭けてみることにした。賭け事は好かない性格ではあるものの、今の自分にはそれしか残されていないと感じていた。伝えるのに遅過ぎたメッセージを彼女が読んでくれているのは知っていた。返事を返せない心境であるのも分かっている。彼女のことだから、言葉が浮かんでこないのだろう。自分もそうだった故に痛いほどよく分かる。すまなかったと送ることは出来ても、それ以上の彼女に対する言葉を見つけられず、寡黙であることを選んでしまった。ならば、彼女が無口でいるのは図らずしもそうなってしまっただけなのだと、今ではそう思う他にない。
 何度も行き来した道には、記憶が宿っている。初めて彼女を自宅まで送った日のこと、何回も顔を合わせた彼女にくすぐったい感情を抱いたこと。四季に満ちる景色に時の流れを共に感じたこと、彼女との関係が定まってきた日のこと、その全てが細部にまで宿っている。だからこそ、余計に一人と言う事実が際立ち、彼女までの道程が素っ気なく感じられた。だが、行かなければならなかった。賭けに出たのは、自分の心を決める為でもあった。どう転んだとしても、黙って受け止めるだけなのだ。深い傷を残し、ふと思い出した日には悔やむことになろうと、心を決めるということからは逃れられないような気がして。北村は手の中にある合鍵を強く握り締める。


***


 目を疑った。無愛想な一日が終わるだけだと思っていた北村にとって、その遭遇は自分の賭けに対する答えだったからだ。居心地の悪い空気が流れる。天井の照明は薄い暖色で、彼女の乾いた涙を隠すように降り注いでいた。互いの視線は重なり、時々どこかに逸れる。距離感も間のとり方も忘れてしまったかのように、二人は他人行儀のままだった。ならば、尚のこと自分から話し始めなければと、北村が口を開く。しかし、それは彼女も同じだったらしく、二人の声はタイミング悪く重なり合ってしまった。

「……なまえさんからで良い、」
「いえ、北村さんから、」

 再び重たい沈黙が漂い、二人の肩にのしかかり、口を塞ぐ。手持ち無沙汰な両手が頼りない、引き摺っていた疲労のせいで気だるく見えていないだろうか。変な心配ばかりが浮かんでは消え、彼女のことを考えさせられる。瞼が僅かに厚ぼったいのは、泣いていたからだろう。鼻の頭がまだ赤らんで見えた。北村はようやく口を開いた。自分からでいい、自分から先に打ち明けるべきなのだ。

「来ていたんだな」
「……ええ、ポストに鍵が入ってるのに気付いて」
「そうか、てっきりもうここには来ないものだと」
「ごめんなさい。ろくに返事もせず、」
「出来なかったのなら、仕方ない」

 それに実を言うと、俺も忙しくしていたんだ。なまえさんを優先させなくてはいけないと分かっていながら。
 彼女が非を謝るのなら、自分だって同じだ。彼女にだけあって、自分にはない非など存在しない。北村は優しく微笑んで見せる。なまえも次第に顔を綻ばせる。だが、二人にはまだやらなければならないことがある。今ここで和解を果たしたとしても、互いに話し合わなければならないことがある。すれ違っていた間のことや抱え込んでいた気持ちの吐露、これからどうすべきか。手を取り合うのか、手を放してしまうのか。これは愚問に過ぎないが、二人にはそう言った話し合う時間が必要なことに変わりはない。

「上がってくれ、なまえさんに立ち話なんてさせられない」
「……それじゃあ、お言葉に甘えて」

 二人並んで歩く廊下の狭さに胸が高鳴る。今まで何とも思っていなかったことが恐ろしいと思えるほどに、北村はなまえに鼓動を乱されていた。もしかしたら、彼女は自分より先にこの恐ろしさに気付いていたのかもしれない。そう思うと、いかに自分が無頓着な人間だったのかを突き付けられた気分だった。