みっともない程に息を切らし、ドアにしがみついていた。日はまだ高い。胸の奥が苦しくて、僅かに痛み、呼吸は浅い。手にした合鍵を握り締めたまま、なまえは北村の部屋に上がり込んだ。座り込み、靴を脱いでは廊下に足を伸ばす。いい大人が全力疾走すべきではないと学べたと前向きな姿勢は置いておき、なまえは疲れた体を休めながら部屋を見渡した。
人ひとり居なくなったとしても変わりのない部屋は、いつにも増して寂しそうに見える。今の自分が悲しみに染まりかけているからだろうか。それとも、会いたかった人物に会えなかったからだろうか。こうなると分かっていたのに、空回る自分を嘲り笑ってやりたくなった。しかし、何故だか妙に落ち着くのだ。この部屋の空気や景色、どれも見慣れたものばかりだ。笑ってしまうくらいに見慣れてしまったものばかりなのだ。
この時、初めて自然と涙がこぼれた。すぐに手の甲で拭う。溢れては拭い、また溢れては拭い続けた。本当はもっと早くここに来るべきだったのかもしれない。でも、なまえはそれが許されると思っていなかった。彼に終わりを告げるように合鍵を置き去りにしたのは自分なのだ。少しだけ感傷に浸りたい。ならば、一人きりの状況はなまえにとってひどく気の利いた状況だった。あの大きな背中に会いたい気持ちは我慢するから、今だけはここに居させて欲しい。誰に懇願するでもなく、なまえは目を閉じる。
不意に脳裏に甦った雨音に鼓動が高鳴った。この思い出はいつ取り出しても、胸を高鳴らせ、自分の想いの始まりを物語ってくれる。突然の雨、ビニール傘すらなく、二人して困った顔で見合ったのだ。よく、覚えている。忘れられない。あの日があったからこそ、なまえは実るとも分からない薬指に赤い糸を巻き付けるようになったのだから。あの日、みょうじなまえは北村義一に恋をした。
***
「あ、雨、」
それはたまたま二人で談笑しながら神室町の通りを歩いている時だった。二人の仲はまだそれほど縮まっておらず、どこか他人行儀でよそよそしい。この日は食事の誘いを受けた北村がなまえと共に食事に出ていた日で、突然降り始めた雨は食事を終えてからの出来事だった。中道通りを歩いていた二人は、降り始めてすぐに強くなった雨から逃れるように駆け出す。二人と同じ行動に出る人間は多く、誰もが慌ただしくしていたこともあり、なまえは北村に手を取られ、連れられるような形で雨宿り出来る場所を探していた。
そして、二人が雨宿り先として見つけたのは、ミレニアムタワー前に設置されているシェルターの下だった。ようやく雨を凌げる場所に来た二人に安堵が訪れる。しかし、北村はなまえの姿を見て、咄嗟にジャケットを脱いでいた。
「みょうじさん、これを」
「これは……?」
「どうやら走っている間に随分と濡れてしまったようで、」
みょうじさんが気にしてしまうかもしれないと。と上着を差し出す北村に、なまえは自分の装いを見る。肩や腕の部分が雨に濡れて肌が透けて見える。勢いの強い雨の中を駆け抜けてきたのだ、恥じらいを覚えるほどに濡れていてもおかしくはない。目のやり場に困った自分をすぐにでも隠してしまいたいと、北村のジャケットを手に取る。北村も配慮してくれているのか、真正面は見ず、顔を逸らしたままだ。受け取ったジャケットは胸元に抱き、北村へ感謝を述べる。未だに配慮の域から抜け出せないのか、時折ちらりとこちらを見ては誠実を貫き通している。
「まさか、突然雨が降るとは思っていなかった」
「それは私もです。だめですね、ちゃんと天気予報見なくちゃ」
「ええ、次は俺も気をつけます」
北村は会話の途中で、なまえに待っていて欲しいと告げた。いつ止むか分からない雨に足止めされている訳にはいかないと、天下一通りのコンビニまでビニール傘を買いに行くのだそうだ。だから、みょうじさんはこのままここで待っていて欲しいと、北村は足早に打ち付ける雨の中を駆けて行ってしまった。一人取り残されたものの、なまえは少し安堵していた。やはり、彼も目のやり場に困っていたと抱えていたジャケットをより強く抱き締める。本当は羽織ってしまえば良かったのかもしれないが、そのせいで彼のジャケットが濡れてしまうのは避けたかった。
路面に叩き付けられる雨は、徐々に辺りや体の表面から熱をさらう。指先が冷たく感じられた頃、体はぶるりと震え出す。こうなっていても、彼のジャケットを濡らす気にはなれないのだから、自分も相当だと思う。手のひらに吐息を逃がす。ほんの一瞬だけを温めてくれるそれは気休めにもならない。それでも、と繰り返している内に視界の端に人影が映り込んだ。やっと戻って来たのだと思い、顔を上げれば見知らぬ男がこちらを見て佇んでいる。
「ひどい雨ですよね、俺も濡れちゃって」
「え、ええ、そうですね」
「寒くありません?そんな格好で、」
「いえ、私のことは……」
「こんな所じゃなくて、他に雨宿り出来そうなところに行きません?」
「え……?あの、」
良くない空気だと言うことは分かった。他に人が居ないのを良いことに、自分をどこかに連れていこうとしている。そう軽んじられたことに怒りを覚えるが、自分一人では大きなトラブルになりかねない気がしていた。それとなく、相手を刺激することのないように慎重に言葉を選ぶ。しかし、男は馴れ馴れしくこちらへ距離を縮めては頑なに引き下がらないのだ。そして、遂にはお姉さんも寒そうに震えてることだし、と腕を掴まれそうになった瞬間。
「すみません、長いこと待たせてしまって」
自分と男の間に割って入るように、北村はその大きな体を滑り込ませた。自分には優しそうな笑みを、見知らぬ男には無愛想な背中を見せている。男は突然、現れた北村に何か言いたそうにしていたが、それは振り返った北村の威圧を放つ表情に断念し、一人そそくさと雨の中に戻って行く。北村は申し訳なさそうな顔でなまえに謝っていた。
「同じことを考える人が多かったようで、混雑していたんです」
「大丈夫ですよ、北村さんが助けに来てくれましたから」
「助けだなんて、そんな」
すると、北村は言葉の途中で黙り込んでしまった。なまえの姿を見ているようで、なまえは不安に顔を曇らせる。どうしたのかと問えば、体が震えている。本当は寒いのではありませんか。と問い返され、なまえは返事に困ってしまった。
「何も気にせず、羽織ってください」
「でも、北村さんだって雨に濡れてるのに」
「俺は大したことありません。ただ、みょうじさんが体を冷やしてしまったら、俺が雨に濡れた意味がない」
ですから。と腕に抱えていたジャケットは北村の手によって、なまえの肩を静かに覆う。見上げた先の頬を雨粒がそっと音もなく流れていく。鞄からハンカチを取り出し、優しく拭うと北村はどこか困ったような、照れたような顔をして目を閉じる。なまえはそれをチャンスとばかりに今まで散々濡れてしまった肩や腕にハンカチを押し当てた。
「いや、俺のことは……、」
「だめです、私にばかりかまけていないでください。自分のことも大切にしないと」
「……ええ、みょうじさんの言う通りです」
それからは北村がタクシーを見つけてなまえを家に帰した。北村のジャケットは肩を覆ったままだ。なまえはその優しさに体を預けると、熱を患ったかのように北村のことをぼんやりと考える。無口な沈黙の中、熱と雨に塗れた自分だけが胸の高鳴りを聞いていた。
***
懐かしい夢を見ていたような気がした。雨の匂いが鼻先をくすぐる。いや、そんなはずは無い。部屋に差し込む日差しはすっかり途切れ、夜の景色に様変わりしていた。今日は会えなかったのだ。ただ自分が一人で空回って、空回って、どうしようもなかっただけだ。乾いた涙に無意味に長居してしまったと知り、この部屋から出て行こうとした時だった。目の前でドアノブがぐるりと半回転する。何故か不意に逃げ出したくなってしまった。しかし、焦燥感に駆られながらも遂に出会してしまう。
相手もとても驚いた表情をしていた。重たい沈黙が漂い始め、彼は照明のスイッチに手を伸ばす。薄明かりの中、なまえと北村は再会した。