再会し、微笑み合えたのも束の間、二人は再び黙り込んでいた。向かい合うような形で互いを見つめ、何から話そうかを慎重に選んでいる。この場では何も間違いたくなかった。酷いすれ違いを起こしてしまったのだから、これ以上何かを失うような結末は見たくない。北村は部屋に僅かに色味が戻ったような気がしていた。なまえはいつも寡黙で丈夫な北村が少しだけ頼りなく見えた。
「その、会えない間は寂しかったです」
なまえは告げる。北村との別れの後に自分がとった行動の全てを。忘れる為の努力をしていたものの、いつも最後には北村のことを思い出していたことを。綺麗な言葉を選ばず、この時だけはありのままの言葉で話をした。酷い生活を送っていたと寂しげに笑ってはすぐに口を閉ざす。
「それは多分、俺も同じだ。突然、この部屋が殺風景に見えていた」
北村から意外な言葉を聞き、なまえは内心驚いていた。彼から弱気な言葉を聞くのはこれが初めてだったせいか、すぐに悲しみの匂いがし始める。深呼吸。まだ悲しみに取り乱したくはないと自身を落ち着かせると、北村と目が合った。何か言いたそうな顔をしているが、口元は相変わらず寡黙なままだ。先に聞いてしまおうかと口を開こうとした瞬間、北村は抱えていた思いを吐露する。
「戻って来てくれないと思った。もし、そうなったとしても仕方がないだろうと」
頭では分かっていた、自分がその原因であることも。しかし、あの時の言葉に嘘偽りはないのだと告げる。なまえを思う気持ちに紛いものなどないのだと。だが、真剣でいたからこそ、失ったと理解した時には、自分の彼女を思う優しさが本当に正しかったどうか信じられずにいた。どうして、それを口にしてしまうまで気付けないのだろう。いつだって一番にはなまえのことを考えていた筈なのに。大切な関係であるからこそ、第一に思っていたのに。しかし、先程感じた恐ろしさを思い出す。そして、理性がぐらついた日のことも連なるようにして甦る。
現状維持を望んでいたのは自分で、いつの間にか彼女を異性として見ないようにしていたのではないかと。そんな失礼な話があってたまるか。だが、現実はその通りであった。長い間、家族のような相手だと思っていた。家族に恋愛感情や情欲を抱くのは以ての外だ。だからこそ、あの日の夜は自分に歯止めをかけることで精一杯だった。一時の感情で彼女を傷つけるかもしれない行為に踏み込むことなど、したくなかった。それでも、腑に落ちないものはある。自分が抱いたものを彼女に向けるのは、あってはならないことなのだろうか。彼女の気持ちを押さえ付けることにならないだろうか。北村は内心を吐露する。
「だが、結果として俺はなまえさんの気持ちを考えていなかった」
口は重く、固いようだった。それでも、なまえは北村の吐露が終わるのを待ち続け、初めて明かされる胸の内を聞き、嬉しさや切なさを一人で噛み締めていた。そんなことはない、と衝動的に口を突いて出そうになる言葉を飲み込みながら、今は北村の話を聞いていたかった。そして、懺悔は終わりを迎え、次になまえに明かしたのは誰にも、ましてや、北村自身にも見つけられなかった告白だった。
「俺は、なまえさんが好きだ」
静寂が波打つ。心臓が大きく脈を打ち、血が熱く騒ぎ立てる。北村の言葉を受け止めた耳でさえ、幻聴を疑うほどにこの時を待ち焦がれていた。自分が引きちぎった糸をもう一度、結び直してもいいのだろうか。あまりにも都合が良すぎないか。彼はそれを望んでくれているのだろうか。なまえは言葉を詰まらせる。だが、もうあのような思いをしたくはなかった。
選ぶ言葉も見つからない、上手い気の使い方も今は分からない。どのようにして、北村に自分の告白を打ち明けていいのか分からない。俯きがちな視線が気になったのか、北村は優しくなまえを呼ぶ。もし、後ろめたいと思っているのなら、それはただの勘違いだ。好きな声音が視線を誘う。途切れた糸を結わえてくれたのは、北村だった。
「本当はもっと早くに伝えるべきだった」
「そんなこと、」
「すまない。ずっとなまえさんを待たせてしまった」
「……私は好きで待ってたんです、だから謝らないでください」
結んだ糸は前より短くなっていた。短くなった分、距離が縮まったのかもしれないと思うと、自分達のすれ違いは必要だったような気がして、なまえだけでなく、北村も救われていた。
「私も、北村さんが好きです。北村さんじゃないと、駄目なんです」
告白の唇は酷く焦れったい。奪ってしまいたいくせに、奪われてしまいたいくせに、それが出来ないでいるのだから、もどかしい。しかし、お互いの気持ちを確認し合えたことだけで二人は満足していた。愛おしさに貪欲になるのはまだ早い。まずは互いの気持ちを確かめておきたかった。その過程がなければ、この二人は先に進むことを決断しない。初めて同じ高さの目線で相手を見ることが出来たと思えた。だが、改めて相手に思いを伝えたところで変わってしまったものがある。今までは慣れていただけだったのだ。いつか来るその日まで相手を思い慕うことに、相手を家族のように大切にすることに。
恋人だった。もう親しいという言葉に逃げることは出来ない。何がどうあっても、前のようには戻れない。指先は躊躇い、唇は火傷し、瞳は戸惑っている。言葉を詰まらせて頬が熱くなっていくのを二人は黙って堪えている。波打つ静寂の波紋がより一層大きくなった。
「俺はこの先、もう少し踏み込んだ行動をとるかもしれない。だが、その時には必ずなまえさんの意見を聞こうと思う」
だから、なまえさんも遠慮する必要はない。我儘でも何でも、言ってくれ。
そう言い終えた北村は突然、表情を曇らせた。理由は自分のせいだ。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙のせいだ。唇を噛もうとも、それは止まない。嬉しかった、嬉しかったのだ。嬉しさに耐えきれず、涙がこぼれてしまったのだ。震えた声でも良いから聞いて欲しかった。
「わたし、ずっと好きだったんです。ずっと。でも、迷惑だけにはなりたくなくて、」
北村の考えていること、自分の考えていること。踏み込むことと迷惑になってしまうこと。線引きはいつだって難しかった。自分を通そうとすれば、相手の考えを曲げてしまう。焦れったいからと踏み込もうとすれば、かえってそれが迷惑になりかねない。ずっとその狭間でなまえは待っていた。その時を、踏み込むことが迷惑にならず、相手のことを尊重した上で自分の意見を伝えられる時を。涙交じりでさぞ聞きづらかったことだろう、しどろもどろで理解に苦しんだだろう。それでも、北村はなまえの傍に近付き、迷惑だと思ったことは一度もない。だから、安心してほしい。と抱き寄せようとした。だが、そうしてしまう前に小さく問いかける。
抱き締めても構わないだろうか、と。思い返せば、抱き締め合うことすらしたことがなかった。なまえはなるべく涙を指先で払い、頷いた。許されたことに安堵した北村は恐る恐るなまえの体を抱き寄せると、ぎこちなく背中に手を回すのだった。