質素なベッドに横たわる男の右腕は義手だ。昔に負った怪我で、今でも無いはずの腕が痛むことがあるのだと彼は教えてくれた。控えめな呼吸音を聞きながら、自分はその男に付き添い、いつもの『用事』が終わるのを待っていた。特に親しい間柄ではない、ただ心に引っかかるような人間ではあった。初めの頃は立ち振る舞いや話し方、それらに丁寧な印象を抱いていたが、このような姿を知るようになってからは何故か心に色濃くこの男のことが残って消えない。爪痕、例えるならそれに似ている気がした。右腕の義手に至る経緯も、左腕に残る蝙蝠の刺青も、彼が何を企み、日々何を営んでいるのかさえも分からない。何も知らないのだ、こうしてここに横たわらねばならない事情以外。薄情な関係だ、今まで何度も顔を合わせるきたと言うのに、自分はただ『それ』が終わるのを待っているだけなのだと。恐らく薄情な関係ながらに付き合いが長くなってしまったのが心変わりの理由、なのかもしれない。
男がここで『処置』を受けている間、無機質なその手に自分の手を重ねるようになった。無事に終わりますように、またいつもの生活に戻れますように、例えささやかでも小さな喜びを見つけられますように。お節介な心情は普段、決して口に出さないものばかりだ。伝える必要はない、何故なら自分はただの付き添い人という薄情な立ち位置の人間なのだから。
***
目が覚めて最初に見るのは、この場所の天井で、次が彼女だ。彼女は自分が『処置』を受けている間、付き添いとしてやって来る人間だ。恐らくはあの人の指示だろう。だが、彼女は最近になって妙な行動をとるようになった。右手に重ねられた手。ここに来て間もない頃には見られなかった光景だ。彼女は小さく寝息を立て、自分より先に覚醒した男が居ることを知らない。不安そうな表情で眠る彼女に、男は憂いを帯びた瞳でその寝顔を黙って見つめていた。
男が思うのは二つ。男は彼女の笑った顔を一度も見たことがない。男は彼女の名を知らない。薄氷のようにいつでも容易く壊れる関係だ。自分が彼女に深入りすることをあの人は予想もしていないだろう。そんな意図で彼女をここに置いている訳では無いことも承知している。それでも、と続きばかりを急かしている唇は未だ無口だ。
「いつから、なのか。それともいつまで、なのか」
感覚のない右手で彼女の手を握り返そうとした。あるはずの無い右手で。ただ、同じように握り返そうと。しかし、自身の血肉では無い右手は彼女が重ねた手を握り返すことは出来なかった。当然だ、既に分かり切っている結末だ。これでもし彼女の手を握り返せたなら、それは奇跡だ。奇跡は、ない。ある筈がない。こんな自分に無償の奇跡など与えられる筈がない。国境を越えた遠方に生まれ育ち、満足な生活環境を与えられることなく、人の道を外れてしまった。今更、自身の歩んで来た道に後悔はない。恵まれない日々の中にも、ささやかな喜びの瞬間は確かにあったのだから。
それでも、望むことは許されるだろうか。どこに行っても喧騒の耐えない狂乱の時代に、彼女だけには心を割いても良いのだろうか。実におかしな話だ。名も知らなければ、生まれがどこかも知らない。好みや興味を唆られるもの、趣味や性格の一つも知りやしないのに。そう思えば、この右手は握り返せぬ義手のままで良かったのかもしれない。人はどうしても孤独に襲われる瞬間があり、その瞬間に弱くなる。今がそうだ。だから、これでいい。無理に彼女の人生に干渉する必要などない。自分と彼女では生きる世界が違う。一時の感情で彼女に、ここに迷惑をかける訳にはいかない。
「私に構わず、自分のために生きてください」
交わってはならぬ境界線の向こう側にいる。彼女も、自分も。幸いなことにまだ互いのことは何も知らない。今までも、そして、これからも知らなくていいことだ。
「あなたがこうしてくれると、とても励みになります。まるで心の支えのような」
彼女はまだ眠りに落ちており、この独白を知らない。自分も彼女に面と向かっては言えない。それ故に横たわったまま、質素な天井のタイルを見つめながら呟く。それでも寂しさを覚え、頼りなく視線を義手に移せば、彼女の寝顔があり、昔のことを思い出す。随分と会えていない妹のことだ。いや、やめよう。彼女に弱さを託すような真似は。目を閉じ、早くこの時間が過ぎ去るのを祈る。この世には言葉を交わさぬ幸せというものがあるのかもしれない、そう思った。
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