吹雪によって耳と目を塞がれている冴島大河は一人雪山の中にいた。雪山の天候はいつも不安定だ、吹雪が収まったかと思えば、次の瞬間は猛るように吹雪いては冴島の進路を阻む。足取りは重い。何度、雪山に入ろうとも足元に纒わり付く雪に悪戦苦闘してしまう。これでも初めて雪山に入った時よりかは大分マシな方なのだが。
雪の降り積る白い山道を川沿いに登っていく、吹雪はまだ強い。歩いては止まって辺りの様子を窺う。いつ、どこで、どんな生き物が冴島の前に姿を現すかは未知である。生い茂る木々の根本には罠を張れそうなポイントがいくつか存在する。だが、今回の冴島の目的は鹿の角だった。どうしても、と集落の人間に頼まれ、冴島は山に入った。無闇矢鱈に生き物を殺す訳にはいかない。必要な分だけその命を頂く。奥寺から教わったことを忘れず、冴島は辺りや雪道に残された鹿の痕跡を探すべく先へと進んだ。
しばらく歩いたところで冴島はようやく鹿の足跡と思われる痕跡を見つけた。それは長く先へと続いているようで、目で足跡を辿った先にその姿はあった。冴島は息を呑む。その鹿は既にこちらに気付いていたのか、冴島のことをじっと見つめている。中には人に気付くと、身の危険を感じて襲いかかって来るものもいるが、今も尚見つめ続けている鹿からはそう言った敵意のようなものを感じなかった。
「……なんや、お前。俺が怖ないんか」
鹿は答えない。冴島の言葉に反応する様子もない。その自分を見る瞳が切なく見えた頃、その理由が姿を覗かせる。傷付いた牝鹿が一匹、後ろから現れた。足を傷めているようで足跡には点々と赤が残されており、冴島は全てを察した。
「そうか、そいつお前の連れか。……ほんなら、俺はお前を撃てんな」
自分より大切なものを守ろうとする姿に冴島は険しい表情を緩め、今日はもう山を降りようと後ろを向いたその時、凶暴な唸り声がすぐ近くの茂みから聞こえてきた。急いで振り返れば、二匹の鹿の前にそれは立ちはだかる。それは黒く、それは荒々しく、そして凶暴。鋭い眼光を鹿達に向けていたのは熊だった。
「はよ行けや!!ここは俺が……!!」
冴島の怒号に鹿達は一目散に逃げて行った。その場に残されたのは銃を構えた冴島と怒りを滲ませた目で睨む熊。先程の鹿とは違い、その目には色濃く怒りの感情が滲んでいる。密かに息を逃がす。冴島は慎重に銃を構え、熊へと照準を合わせていく。熊は冴島の様子を窺い、当然と言うように二本足で立ち上がった。そして空気が裂ける程の咆哮を一つ。熊の気迫に冴島は照準をずらされ、その隙を突いた熊は冴島へと前足を振り下ろした。
雪山に銃声が響く。冴島は大きく肩で呼吸をし、熊は前足を振り下ろした低い姿勢のまま、絶命していた。額には銃口が向けられている。冴島はあの一瞬で後ろへ下がり、地面に覆い被さるような姿勢になった熊の額を撃ち抜いたのだ。酷い緊張感に生きている心地がする、あまりこんな所では味わいたくない緊張感だ。今日はもう山を降りよう。冴島は息を荒らげたまま、山を下った。
それから冴島が熊を一匹仕留めたと報告を入れたのは、無事集落まで戻ってきてからのことだった。他のマタギ達を集め、もう一度山に入り、その熊を持って帰ろうと慌ただしい雰囲気の中、冴島は見た。集落の一歩手前まで降りてきた、あの鹿の姿を。雪山で見た切ない目ではなく、穏やかな目をして鹿は頭を低く下げた。冴島は、そないなことせんでも、ええ。達者でやれや。と告げると鹿はゆっくり踵を返し、山へと戻って行った。その後ろ姿が見えなくなってしまうまで、冴島は集落の入口に佇んでいた。
| 獣の瞳 |back