ただいま。と疲労した声がすぐ近くから聞こえてきた。真島は彼女の暮らす部屋の前で煙草を吸っている最中だった。顔を声のする方へと向け、含んだ煙を吐く。夕暮れのグラデーションに浮かぶ白煙、薄暗いアパート二階の通路で陰る蛇革、今日もその腕いっぱいに疲労を抱えた彼女のくたびれた立ち姿。

「今日もお疲れさん。……確か明日から休みやったか」

 真島は手にしていた煙草の火を躊躇わずに消した。まだたっぷりと吸える程に煙草の余白は長い。けれど、彼女が帰ってきたからと、真島は何の躊躇いもなく彼女を選択する。

「なぁにぼさっとしてんねん。さっさと中入るで、いつものやつやったるわ」

 彼女が頷いたのを見た真島は、ほれ。と頼りない腕を引っ張り、部屋へと引き摺り込んだ。この部屋の勝手を知っている真島は、部屋が夕闇に染まっていようと関係無いと言った足取りでリビングへと向かう。暗闇の中でガサガサとお目当ての物を漁っていると、不意に部屋がぱっと明るくなる。白熱灯の明かりに照らされ、真島はようやく一枚の紙と赤ペンを手にして廊下に佇む彼女の元へと近寄って行く。

「今日は何曜か言うてみぃ。……せや、今日は金曜や。金曜言うたら、アレや、アレ。はなまるの日や」

 彼女の目の前で、真島は手にした名刺サイズのマス目が並んだその用紙に赤ペンでさらさらと何かを書き込んでいる。真島のぴったりと張り付いた革手袋に赤ペン、懸命に慣れない何かを書き込む姿がおかしいと疲労した顔の彼女が笑う。

「なにがそないおもろいんや。けったいなやっちゃ、ホンマに」

 見た目と違って優しいことをしてくれるから、と彼女が薄まる笑顔で告げれば、真島もそれ以上意地悪な言葉を口にせず、不器用な形の悪いはなまるが描かれた用紙を手渡した。

「月、火、水、木、金……、」

 真島は何かを指折り数え、その様子を見つめている彼女に問い掛けた。彼女は不思議な表情をして頭上に『?』を浮かべている。真島はそんな彼女の事を置き去りに、にやにやと一人笑う。

「ホンマに真面目ちゃんやなァ。また今週も皆勤賞バッチリや。ウチにもこれくらい真面目な人材がいたらええんやが……。どや? 今んとこ辞めてウチに来るっちゅうんは?」

 優遇したるでぇ? と先を続けてみたものの、真島の言葉に彼女は靡かなかった。あからさまに肩を落とし、落ち込んで見せる真島に、ごめんなさい。と微笑む。

「筋金入りの真面目ちゃんやで、ホンマに……。ま、ええわ。ウチはいつでも人手不足や、気が変わったらいつでも言うてくれや、即採用したる」

 真島の珍しく優しげな提案に彼女は肩を揺らしながら笑い、こう返した。その気持ちだけでも嬉しい。けれど、そう言ってくれることも嬉しい。だけど、それじゃあ、真島さんにはなまるを書いてもらえなくなる、と。その返事に真島は呆気に取られた顔をしていた。

「……そないな事、気にしとったんか? 別に、はなまるの一つや二つ無くなっても大した事ないやろ」

 そんなことない。と疲れているにも関わらず、少し声を大きくして、いかに真島の書いてくれたはなまるに助けられてきたかを告げる。まるで愛の告白のようだった。真島はそれを黙って聞いていた。彼女の気が済むまで、丁寧で熱を帯びたその声が止むまで。その全てを聞き終えて思うのは、彼女がどれだけ自分を好いているか、それだけだった。

「真面目ちゃんの割にええ子やないか」

 不敵な笑みを貼り付けた真島が彼女の顔を覗き込む。突然縮まるその距離に驚いていた。しかし、真島は平然としていて全く動じず、彼女の慌てふためく様、あちらこちらに視線が泳ぐ様、唇が狼狽えている様など、彼女の表情の変化を観察するようにじっと見ている。

「せやろ? 面倒な仕事もちゃあんとこなして、真っ直ぐ家に帰ってくる。疲れた顔もようしとるが、それでもきちんと家の事もやっとる。健気でたまらんわ」

 真島が言い終えた全てに苦い表情をしている者が一人。真正面からぶつけられた真島の言葉が彼女に響いている。深く、重く、何処までも。まだ頑張りが足りないのでは無いかと思い悩む日もあった。自分が未熟であることを無自覚に責めてしまう日もあった。不意に弱くなってしまって些細な一言に傷付く日もあった。彼女が不恰好に積み重ねてきた前向きや後ろ向きな事の全てを抱き締めてくれるような言葉に、彼女は苦い表情をしていた。涙を堪えている、けれど、頬は喜びに色付く。

「なんや、可愛ない顔しよって。折角、俺が帰りを待っとったんや、もっとええ顔せんかい」

 黒い革手袋が彼女の後頭部に触れ、真島の派手な色が入った胸元へと抱き寄せた。小さく鼻をすする音がする。真島は革手袋を上下に動かし、何も言わず、彼女の溢れる感情を宥めていた。一人でよくここまで歩いて来れたと励ますように。一人では持ち切れない重荷を一つずつ取り除くように。よく頑張ったと労う手付きで彼女の頭を撫でていた。

「ホンマに可愛いないのう、」

 でも、その顔は俺やないと見せられへんもんなァ……。と窓枠に収まる神室町の夕暮れ空を遠目に見ながら、今日の夕飯何にしよか、と呟く。そして、真島はもう一度だけ呟いた。今日は韓来でも行こか、と。せやから、はよ涙拭いて外行くで、と真島の声に彼女は夜の神室町へと連れ出されていく。



| 金曜日のはなまる |


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