ピンポーン、と玄関から来客の知らせを受け取った彼女は、一体誰だろう?と首を傾げながら、心当たりのない来客の顔を一目見ようとドアスコープを密かに覗く。宅配業者と思われる格好をした男が一人立っており、彼女は何の疑問も持たず、目の前の扉を開けた。こんにちは。と声を掛けてみたものの、返事はなく、少しだけ嫌な予感が過ぎった瞬間、どこからか男の声が聞こえてきた。その声は自分の正面に立っている宅配業者のものではなかった。

「よぉ、借金取りのお出ましだ。中で話でもしようじゃねぇか。いいよなあ?別に。」

 うっ、と自然に声が漏れた。うっ、ってなんだよ、そりゃあねぇだろ。と当然のように上がり込んでくる男、佐川を止められずにいた。そうだ、あの宅配業者は、と彼の姿を探せば、いつの間にか姿を消しており、彼は既に居ない。玄関マットの上に腰を降ろした佐川は、ああ、アイツか、と零した。

「アイツはウチのだよ。だって、こうでもしねぇとお前、俺の顔見ただけで逃げるからな。それじゃあ面倒くせぇだろ?」

 佐川との噛み合わない話に、私は借金なんてしてません…!と返せば、そうだっけか?なんなら今からでも借金作ってやろうか。と嬉しそうに口角を緩やかに上げていく佐川にゾッとするものを感じていた。この男ならやりかねない、もしそうなってしまったら、と考えると恐ろしくてたまらない。恐怖から逃れるように玄関先に居座る佐川と距離をとる。本当なら帰ってもらいたいが、簡単には帰らないだろう。

「なあ、ここってさ、灰皿ねぇの?」

 ありません。ときっぱりと言い切れば、じゃあ、次来る時までにちゃんと用意しとけよ。と腰を上げた。正直、長居するだろうと腹を括っていたのだが、思ったよりも早い帰りに胸を撫で下ろす。灰皿の件は、それなりに考えるとして、今は何もせず、余計な事も口にせず、彼が出て行くのを待っていた。

「じゃあな、」

 それだけを言い残した佐川は足を進めたかと思いきや、その場で振り返り、彼女の腕を掴み、自身に引き寄せてから、ぽつり。そうだ、さっきの借金の件も考えとけ、お前の面倒くらい俺が見てやるよ。と別れ際にそれだけを言い残してから、出て行った。
 耳元で感じた吐息の生温さと佐川の吐いた呪いがこびり付いてしまって取れそうにない。借金の件?佐川の面倒になる?そんなのまっぴらごめんだ。あの人はいつも脅かすだけ脅かして人が苦悩する様を愉しんでいる。さっきのもそうに違いないと分かってはいるのだが、この背筋が凍る感覚は何なのだろう。不吉だ、不穏だ、そして、たまらなく不安である。

 仮に。もし仮に、佐川の為に灰皿を用意していないと告げたなら、自分はどうなってしまうのだろう。『次』はある、しかし、『次の次』は?これもまた佐川の楽しい遊びなのだろうか。人の気も知らず、他人の苦しむ姿を見て愉しむなんて本当に悪趣味な男だ。


***


「なあ、俺言ってなかったっけか。」

 空気が重く沈む。窓の外の明るさが目に焼き付き、土足で人の部屋に上がり込んだ男の陰る顔を見ていた。身を屈めた男の鰐皮の靴が廊下のフローリングを踏み付ける。女は床に尻もちをついており、男の放つ威圧感に肝を冷やしてばかり。

「灰皿。俺、お前に言ってなかったか?」

 ただ静かに頭を横に振る。今はいつものような軽口を叩く余裕が無い。多分、それは許されもしない。口角が上がっていようと目は笑っておらず、そうだよなぁ、俺、ちゃんと言ってたよなあ。と顎髭を撫でれば、それ以上追求することなく、今度は懐を漁っていた。懐から取り出されたのは佐川が愛飲している煙草で、まだいくつか残っている内の一本を咥え、こちらを数秒見た後でようやく煙草に火をつけた。
 じわりと燃え始めた煙草の匂いが廊下一面に漂う。その慣れない匂いが白く壁や床、辺りに染みていく。たった二、三度しか吸っていないそれを自身の手に預けた佐川が再びこちらを見た。嫌な予感がした。

「……参ったな、この部屋には灰皿ねぇんだよなぁ。じゃあ、この火どうやって消しゃあいい。なあ、何かいい方法ねぇのか。」

 いい方法……?と何も考えられなかった頭に問い掛けられ、答えに詰まってしまった。すると、佐川は今度は愉しそうに笑いながら、例えばだけどよ、と口にする。無理矢理引っ張られるような感覚に、自分のシャツが捲り上げられたのだと知り、佐川の手によって腹部を露出させられた所で話の続きが始まる。

「どっかの馬鹿の集まりみてぇに、やれ教育だなんだっつって、人の体で火消しちまうとかよ。焼き入れっつったか、あれもまあ結構ひでぇよなぁ、」

 でもよ、流石に女の腕にそんな可哀想なもん残すなんざ、俺はしたくねぇんだ。だから、せめて見えねぇ所で勘弁してやるよ。どうだ?優しいとこあるだろ、そこら辺のチンピラと違って。
 佐川の吐き出した毒に今まで通り呼吸をするのが恐ろしく感じられた。呼吸の度に膨らむ腹部にいつ『それ』が押し付けられるのかと思うと、恐怖に上手く息が吸えなくなった。佐川はこちらの怯える表情を見ても尚、顔色一つ変えずにいる。遂に待つことに痺れを覚えたようで、『それ』はゆっくりと燃える痛みを知らない皮膚へと近付いていく。僅かに燃え続けている煙草の火が網膜に焼き付き、ゆらゆらと立ち上る煙の匂いは鼻を突いた。

 燃える、あの僅かな小さな炎で、この皮膚は燃えてしまう。早く燃えてしまえと思うようになった。こうして焦らされていることの方が悪質なのだと。そして、もう直に触れる直前で顔を背けた。その瞬間は見たくない、必死の抵抗だった。何も見ずに唇を噛む、未知の痛みを痛みで紛らわせている。しかし、それはいつになってもやって来ない。自然と閉ざしていた目を開き、佐川を見れば。

「なんだよ、本気にしてんのか?冗談だよ、冗談」

 軽々しい笑みで手にした煙草を吸っていた。呑気に吐き出される煙はぷかぷかと浮かんでいく。想像と現実の差に目眩を起こしそうだった。何も起きていない現状に取り残されていると、佐川はその場を立ち、最後に一度だけ煙草をふかすと鰐皮の靴底で火を捻じ消し、玄関にその吸殻を捨てて出て行った。

「よかったな、俺が優しいヤクザでよ。」

 じゃ、またな。と言い残し、煙草の匂いを纏った男は目前から消えた。それなのに、未だ体を支配する恐怖に『次』はないのだと教え込まれた自分が悔しく、あの男が酷く恐ろしいと思った。



| 灰皿 |


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