「……都知事、最近お疲れではありませんか?」

 え?と自分に掛けられた言葉が予想外だと言うように青木は顔を上げた。手元にはざっと見ただけでも難解で厳格であるとわかる文字列と多少の数値が並ぶ書類があった。しまった、今は職務中だ。自分の失言を詫びるように急いで頭を下げる。

「も、申し訳ありません……! 職務中にこのような私語を、都知事に、」
「いいや、私は構わないよ。それに君も私を気遣ってくれているんだろう? ありがとう、嬉しい限りだ」
「い、いえ、本当に申し訳ありません……!」
「そんなに謝らなくて大丈夫だよ。さ、顔を上げて」

 優しい言葉通りに頭を上げ、手元の重要な書類より自分を見ている青木のその目に胸が熱くなる。あの優しさを何倍にも返せるような人間になりたい。人一倍、国を想って身を砕いてきた青木の為に。青木遼は自分の知る限りで最も優しい人間だ。

「……少し休もうか。確かに君の言っていた通り、最近の私は根を詰め過ぎていたのかもしれない。正直な話、少し疲れてしまった」
「それじゃあ、何か飲み物を」
「一緒に行こう。今までずっと座っていたんだ、私も同行するよ。君はそれでも構わないかい」
「ええ、大丈夫です。では、こちらへ」

 部屋の扉を開け、二人は給湯室へと歩き出した。青木はさっきも言っていた通り、長いこと座り続けていたせいか、珍しく腕を伸ばして体の凝りを解しているようだった。ぐぐぐっと力んでから、ぶらん、と垂れ下がる腕と丸まった背中に、青木遼の人間味を感じ、密かに微笑む。勿論、都知事といる手前、公に笑える訳がなく、密かに微笑んでいたはずなのだが、気が付けば、青木も隣で微かに笑っていた。

「……君、私が背伸びをしているのがそんなに面白いのかい?」
「え、いや、その、これは……!」
「答えによっては、君にお説教をしなくちゃいけないな」
「えっと、そのですね、決して変な意味じゃなくて、」
「フッ、あまり身構えないでくれ。都知事という堅苦しい肩書きはあれど、私も君と同じなんてことないただの人間だ」
「でも、都知事は、」
「こう見えて腹も鳴るし、あくびもする。さっきみたいに背伸びをするなんてザラだ。それに、実は職務中にこっそりうたた寝だってしたこともある」

 まあ、自室に篭って書類整理をしている時に、だけど。と青木遼のイメージとは無関係そうな行動ばかり挙げられて、そのユーモアに微笑みはより大胆になっていく。

「こら、君、笑い過ぎだ」
「し、失礼しました。でも、都知事にもそんな一面があるんだって思ったら、その、ふふ、」
「意外、だったかい?」
「……はい、少しだけ」
「そうか、じゃあこれは他言無用で頼むよ。あの青木遼がうたた寝をしていた、なんて恥ずかしいからね」

 お任せ下さい、内緒にしておきます。と二人の秘密話をすぐに飲み込み、ささやかな会話と共に無人の廊下を行く。
 根を詰め過ぎたという青木はいつも夜遅くまでこのオフィスに居ることが多い。二人の行く通路にはいくつもの窓枠があり、無機質なビル群の夜景がそのフレームに収まっては絵画のように佇んでいる。静まり返る画廊を歩けば、目的地である給湯室に辿り着く。そこは一般的な給湯室とは違い、広く使い勝手の良い小さなカフェのような快適さを持ち合わせていた。

「今、お湯沸かしますね」
「それじゃあ、私は何を飲むか選ぶとするかな」
「そう言えば、この間とても美味しい紅茶を頂いたんですが、いかがでしょう」
「紅茶か、うん、悪くない。君は何にするんだい?」
「そうですね……」

 流しの前で電気ケトルに水を補充していると、隣で青木がスティックタイプのコーヒーや紅茶などのティーバッグを選び兼ねていた。青木の悩ましげな様子が見え、また一つ青木の人間らしさに触れる。その悩ましい横顔に、こうして少しでも部屋の外へ連れ出せてよかったと胸を撫で下ろす。

「都知事、是非お好きなものを」
「それなら、君の言っていた紅茶を飲もう。君の分も一緒で良かったかな?」

 ええ、ありがとうございます。と告げれば、真面目な眼鏡の奥で勤勉な瞳が穏やかに細まる。しかし、その穏やかさに異議を唱えたのが自分の生真面目さで、都知事にさせるべき行いではないと気付いた時、すみません……!と慌ただしく口にしていた。いつの間にかケトルも水でいっぱいになっている。

「あの、ここは私がやりますので都知事は……!」
「ん、なんだい、ここまで一緒にやって来たのに、急に私だけ除け者かい?」
「いえ、そういう訳では……、ですが、」
「いいんだ、私にやらせて欲しい。君には良い息抜きの口実を作ってもらったからね」

 ありがとう、と感謝の気持ちを添えてくれる青木に、胸の熱さの正体を見つける。
 こんな私でもお役に立てるのなら、いつでもお申し付け下さい。自然と唇が丁寧に言葉を紡いでいた。咄嗟のことで驚きに口元を手で隠せば、青木は嬉しくも困ったような顔をして、……きみに無理はさせたくないんだがね。と呟き、もう何度目になるか分からない、ありがとうを口にした。しかし、不思議なことにその言葉だけは、今まで受け取っていたものと何かが違うような気がしていた。こんなこと口が裂けても聞けないが、自分の勝手な思い込みなら、それでいい。

 ──ケトルに流し込まれた水が溢れてしまうまで、あと数秒。





「おっと、溢れてしまったね。水を止めた方がいい」

 青木の言葉に冷たく濡れる手元に気付く。慌てている自分よりも先に青木の手が蛇口を捻っていた。水の滴るケトルも大きなそれに攫われ、流しの傍へ。そして最後に訪れたのは、布の感触と自分の手に触れる青木の感触だった。次々にやって来る出来事の荒波に思考は一時停止する。何も発せずにいる自分の手を青木は自身のハンカチで丁寧に拭いている。

「きみは少しおっちょこちょいだね。さっきから何かと慌ててばかりいる。それが悪い、というわけではないんだが、これでは私も心配になってしまうよ」

 依然、青木の水滴を拭う手つきは優しいままだ。しかし、青木から発せられた心配の二文字に途端に気落ちしてしまう。先程から空回りしている自分がいると分かっていた。分かっていながら、青木にそれを言わせてしまったことを悔いてしまう。

「今は何もない指だが、いつか私の知らない指輪を受け入れてしまうかもしれない。きみは素敵な女性だからね、ちょっかいをかけられることもある筈だ、」

 だから、きみがそんなに無防備では、私も気が気じゃなくてね。ハンカチをどかし、将来が空席のままの薬指をなぞる指先は青木のものだ。憂う、誰も知り得ない将来を。勘違いが引き金の後悔は今、息を潜めている。

「すまないね、これは私の勝手なひとりごとだ。気にしなくていい、きみを責めているわけじゃないんだ」

 ハンカチも下げ、この手から離れていく青木の指先がしんとした寂しさを残す。まだその視線はこの手にあり、俯いているが故に、はらりと垂れ下がった黒い前髪の細い束が視界を遮る。前髪で陰る瞳に別の知らない誰かを見た。まるで別人の顔をしている青木の陰りを拭うように、誰のものでもない指先で前髪に触れた。

「どうか、お気になさらず。これは私の勝手な、」

 続きを口にする前に視界は突如陰る。瞬きの一瞬の間に鼻先をくすぐったのは、よく知るあの人の、好きな匂いだった。



| 溢れてしまう、きっと |


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