ハン・ジュンギには仲間内にすら明かせない秘密がある。何気無い転職がきっかけで生まれた、新たな自分の一面であり、悪癖であるそれは、自分と番となる彼女しか知らない行為であった。
「おい、大丈夫か?ハン・ジュンギ」
「ええ、心配には及びません。ただのかすり傷ですから」
春日の問いにそう答えるハン・ジュンギの腕や頬、腹部には敵からの攻撃の痕が僅かばかりに残っていた。
ここは伊勢佐木異人町、チンピラや荒くれたホームレス、酔っ払ったサラリーマンと言った悪質な敵とエンカウントする横浜の街だ。ハン・ジュンギと春日の二人はつい先程までその悪質な男達とバトルを繰り広げており、無事撃退はしたものの、体力の消耗は避けられなかった。
「それなら良いんだけどよ。あ、なんならサバイバーに寄ってマスターに手当てしてもらうか?」
「春日さん、本当に私は大丈夫です。ですが、今日はここでお暇させてもらっても良いでしょうか」
「ああ、俺は構わねぇが……、」
なんだよ、もしかしてデートか?と春日の茶化した口調に、まあ、そんなところです。と返せば、……マジかよ、と唖然とする春日の表情があった。デートと言うよりかは顔を見に行くようなものです。と訂正し、ハン・ジュンギは春日と別れた。
ハン・ジュンギが春日と別れて向かった先は、とあるアパートの一室。暖かな日差しが降り注ぐ道を、ハン・ジュンギは涼し気な顔で歩いて来た。負傷した箇所の痛みなど気にならないというように、軽やかな足取りはやがて彼女のいる部屋へと辿り着く。
見慣れた扉の前で立ち止まると懐からこの玄関扉を開ける鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。ガリッと鳴いた鍵を半回転させ、今度はカチッと鳴った解錠の音を聞き、引き抜く。そしてノブを回し、中へと上がれば、その音に気付いたのか、部屋の主と思われる人間は慌ただしく玄関へと駆け寄ってきた。
「おかえりなさい、ジュンギさん」
「これはまた慌ただしい出迎えですね。そんなに待ち切れませんでしたか?」
「ええ、そこそこには。……いえ、とっても待ち遠しかったです」
彼女の告白に胸の奥を熱くさせられる。彼女はいつもそうだ、我儘になれず結局は素直に自分の気持ちを吐露しては、無自覚に人の心を焦がす。これは彼女自身の悪い癖、悪癖だ。しかし、彼女はハン・ジュンギの、いや、本当の彼の悪癖を最も良く知っている異性である為、それに気付くのに時間は掛からなかった。
頬に残る打撲痕、腕や腹部に残る微かな血液。彼女の表情が曇るのと同時に体は発熱する。喉の渇きと疼く欲求を紳士的でありたいという理性が阻む。その衝動的な異変にも気付いてしまったのだろう、彼女は玄関で佇む彼の腕を掴んでは自分の方へと引き寄せた。
「……部屋に、行きませんか。いつまでもこんな狭いところにいるのも、なんですから」
彼女の言葉に誘われ、ハン・ジュンギは微熱を帯びたまま、外の光に照らされた部屋へと意識を向ける。何故だろう、あの暖かな日差しがやけに眩しい。体に宿る微熱のせいだろうか、日差しを取り込む窓をカーテンで遮ってしまいたいとさえ思う。自分の先を行く彼女に声を掛けた。こちらを振り向き、どうしました、と問い掛ける直前、ハン・ジュンギは彼女を近くの洗面所へ引っ張り込んだ。
日の届かぬ薄暗い洗面所の壁際に二人はいた。女が壁を背に、男は女の正面で立ち止まっている。ジュンギさん……?と不安そうな声が静寂に消えていく。か細い声は男をすり抜けて、どこに響くでもなく消えた。微熱は止まない、しかし、悪癖もただ指を咥えて見ている訳にもいかないようで、男の衝動に強く訴えかける。
「……すみません。ここに来る直前、タチの悪い男達に絡まれまして」
「だから、怪我してるんですね。ほっぺのところ、」
彼女が伸ばした、何気なく頬に触れようとした腕を掴む。
「このような頼みは心苦しいのですが、ほんの少しで構いません。……今日もいただけませんか」
飢えた口元から覗く鋭利な牙。これは少し前にはなかったものだ。誰にも明かせずにいるハン・ジュンギの悪癖とは、人の血を吸う吸血行為である。全ては悪魔というジョブに転職したことから始まった。『吸血』は悪魔専用の能力なのだが、この『吸血』は一度習得してしまえば、以降どのジョブになろうと使用出来る能力の一つであった。それがハン・ジュンギに今の悪癖を齎した。
彼女が一度頷くのをハン・ジュンギは見ていた。彼女から与えられた許しに、更に距離を縮め、肩に掛かる髪を後ろへ流すと露わになった首筋に顔を埋めた。牙がゆっくりと首筋の肉に突き刺さり、そこから溢れ出る暖かな赤を舌先で何度も掬い取りながら喉の渇きを潤していく。痛みに耐える彼女からは苦痛の声と焼けるように熱い吐息が漏れた。
***
行為はほんの数分で終わり、洗面所の隅で座り込む彼女の傍でハン・ジュンギは止血処置を施していた。この時ばかりは吸血時の恍惚感は消え失せる。
「痛かったでしょう。すみません、本来ならば控えるべき行為なのですが、」
涙目の瞳がこちらをぼうっとした眼差しで見つめている。噛み締めただろう唇の赤が血を彷彿とさせ、悪癖がまた疼き出す。しかし、今度はそれをなんとか抑え込み、潤んだ瞳の彼女を抱き寄せた。
「ありがとうございます、あなたには感謝してもしきれない。ですから、次はこの埋め合わせを」
「……美味しい焼肉が食べたいです、ジュンギさんと一緒に」
「分かりました。丁度、一箇所だけ心当たりがあります。きっと気に入っていただけることかと」
楽しみにしてますね、と微かに元気を取り戻した彼女の声音に安心を覚え、腕の中の彼女もハン・ジュンギの背中に腕を回していた。
……私も出来ることなら、トマトジュースを代用したいのですがね。と悩ましく憂い気な溜息を吐いたハン・ジュンギのシルバーアッシュを撫でるのは彼女の優しい手だった。彼女を自身の番としてしまうことも、彼女の血でしか飢えを満たせないのも、彼女を消費していくだけの自分も嫌になる。しかし、と深追いする意識を遮るように、より密に抱き締められたような気がした。彼女を抱き締めていた筈が、いつの間にか彼女に抱き締められていた。
「あ、あの、これは……?」
「ジュンギさんは頭が良いので、考え過ぎてしまうところがあります。ですから、こうしてぎゅっと、」
「ぎゅっと?私の為に?」
「駄目でしたか……?あまり居心地良くないとか、」
「いいえ、そういう訳では……、」
それじゃあもう少しだけ、こうしていてもいいですよ。と穏やかな心音が響く彼女の胸元に顔を寄せられた。昔、どこかで聞いたかのようなその音にハン・ジュンギはそっと目を閉じる。この胸の奥にある、どくどくと脈を打つ心臓を越えて体の至る所へ流れていく血液を想うと、不意に愛おしさの在り処を見た。
まるで昔から血と血で結ばれた相手のようだと思えば、彼女の血がこの身に馴染むのに理由はいらないのだと悟った。
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