「それじゃあ、荒川くん、また明日」
「……ああ、またな」

 愛想のない荒川真斗から与えられるのは、やはり温かみの少ない別れ際の挨拶だけだった。これで何度目だろう、真斗の冷めた言葉を投げかけられるのは。多分、それは数えきれないくらいに多い。またね。と言い残し、車椅子の彼と彼の部屋を後にする。
 荒川真斗とは幼馴染みという関係である。その関係を真斗の父である荒川真澄に買われ、今では家政婦としてこのマンションに通うことが日常となっている。不満はない、決して他人ではない相手と有り余るほどの給与を支給してくれるこの環境には寧ろ感謝さえしていた。

 扉の先に広がっているのは無数の夜闇とほんの少しの星粒。もう既に夜がこちらを覗き込んでいる。無人の通路の先にはエレベーターがあり、それに乗り込むと目的地である一階とドアの開閉ボタンを押し込む。一人きりの空間で何を考えるでもなく、ドアの上部にあるインジケーターのランプが左に向かって移動していくのを目で追いながら、エレベーターの静かな降下音を聞いていた。

 一階に到着したエレベーターを降り、遅い時間だからと足早に歩き出したエントランスホールで不意に声を掛けられる。低い声の敬語は的確にこちらを捉え、当然と言った足取りでその距離を縮めて来た。

「お疲れ様です」

 正面で立ち止まり、頭を下げたのはダークグレーのスーツを来た強面の男だった。礼は手短に済まされ、男の威圧的な瞳は真っ直ぐに射抜いてくる。一般人とは異なる、ただならぬ雰囲気を漂わせるこの男は何者なのか。それはこの男の左胸にある代紋が全てを物語っている。

「こんばんは、沢城さん」

 沢城と呼ばれた男は、真斗の父である荒川真澄が有する組の若頭という立ち位置にいる人物らしい。つまり、毎月目を疑うような大金が給料として振り込まれるのも、仕事終わりにこうして送迎の使いが来るのも、荒川真斗がヤクザの息子であり、自分はその幼馴染みで、彼の父が雇った家政婦だからだ。

「外に車を置いてありますので、どうかご足労願います」
「……ありがとうございます。でも、いつも送ってくださらなくても、」
「いいえ、親父からあなたの身の安全を優先させるようにと言われています。ですから、こんな夜道を一人で歩かせるなんて真似、出来ません」

 沢城の淡々とした敬語にいつも言いくるめられてしまう。彼にも彼の仕事があると知ってはいるが、このような一銭にもならない送迎も彼の仕事になってしまうのが少々心苦しかった。さあ、行きましょう。と表情一つ変えない沢城の言葉に見えない首輪を引かれて、分かりました、よろしくお願いします。とその背中に着いて行った。
 車はマンションの駐車場に停められており、コンクリートのグレーばかりが群れている風景に沢城と共に溶け込んでいく。カツン、カツンと革靴が鳴っている、それは沢城のものだ。自分の足はと言えば、しっかりとスニーカーの靴底で地面を踏み締めている。背の高い黒スーツの背中は自分の少し先を歩いており、たった二人きりの沈黙が重たい。

 ずらりと並んだ乗用車は皆、優雅な佇まいで眠りについている。見た目も色もエンブレムさえも異なる車が入り交じって静止している中に、沢城が乗ってきたと思われる黒のセダンがあった。車のロックは解除され、後部座席のドアは沢城の手によって開かれる。失礼します。と一言置いてから車に乗り込み、疲労した背中を深くシートに預ければ、すぐにドアは閉められた。そして今度は運転席に乗り込んだ沢城の挙動を密かに盗み見ては、一日の終わりを実感していた。
 キーが差し込まれ、エンジンが起動する音。シートベルトが擦れ、ベルト先端部のロックが噛み合った音。ルームミラー越しに見えたのは冷めている男の目元で、その数秒後にはパーキングブレーキが解除された音とシフトレバーがDに押し込まれた音が聞こえ、遂にこの車は真斗の住むマンションを出た。


「いつも面倒ばかり掛けてしまって申し訳ない、とウチの親父が気にかけていました。ただ幼馴染みであるという理由だけで、家事を担ってもらっていると」
「いいえ、そういうの気にしてませんから。それにきちんとお給料も頂いてますし、荒川さんが気にする必要は、」

 そう言っていただけると助かります。と事務的な会話が繰り返される。端的にしか言葉を口にしない沢城は元から寡黙な男なのだろう、ルームミラー越しに見える目元はただ正面だけを見つめている。自分もそれに似て、後部座席のドアガラスの外にある流れていく風景を見つめていた。

「今日の若の様子は、」

 事務的だった会話に変化が訪れる。ガラスの外に投げていた視線を運転席にある沢城の後ろ姿に戻す。

「いつも通りです。ただ、」
「……ただ?」
「今日作ったご飯が美味しかったみたいで、美味かった、って褒めてくれました。ふふ、珍しいこともありますね」

 フッ、と鼻を鳴らして笑っているのは沢城だと気付く。その目元は笑みに細まるでもなく、感情の欠片は何一つ見えないのだが、それは何よりで。と答える彼の目からは何故か安堵のようなものが感じられた。
 日々、帰りの車内で沢城は、その日の真斗の様子を聞いてくる。親父に報告しなければならないと言っていた沢城の本心が分からなくなった。今までは単に報告の為だけだと思っていたのに、あのような感情の糸口を見つけてしまっては、何か明かせないものを抱えているのではないかと。

「ウチは男手は足りていますが、女手が足りないもので、本当に助かっています」
「……恐縮です。沢城さんからそのように言われると」
「すみません、困らせちまったようで、」
「あ、そう言うつもりじゃ、」
「構いませんよ、」

 その言葉を最後に車内は静寂に包まれる。気まずくなってしまった雰囲気に呑まれながら、沢城の運転する車は夜に染まる住宅街を走り抜けて行った。


***


 車が次に停車したのは、自宅の前だった。沢城は運転席を降りる前に自身の懐を漁ると一通の封筒を取り出し、こちらへと差し出した。ただの手紙にしては妙な厚みがあり、まともに封もされておらず、これは?と沢城に問い掛けた。

「それは、『お気持ち』 です。なんせ今日は良い話を聞かせてもらいました、親父もさぞ喜ぶことでしょう」

 お気持ちという響きに嫌な予感がして、封筒の中を覗き見れば、誰もが知っている歴史的人物の顔とその札の価値が記された文字を目にしてしまい、言葉を失う。

「ご遠慮なさらず、お持ち帰り下さい。これには買収の意図も、あなたを軽んじた口封じという意味もありません」
「……いえ、荒川さんから毎月ちゃんと頂いてますので、それ以上は、」
「だから、親父もあなたを若につけたんでしょう。ウチにも世話役はいますが、ここまで良く出来たヤツじゃないんでね、」

 全く振り返りもせず、沢城は運転席を降りると、こちら側のドアを開け、さあ、到着です。と言い放った。手の中に残る封筒の居心地だけが悪く、車を降り、開かれたドアの先で佇む彼の元へ。

「これは、本当に受け取れません。……お返しします」
「そうですか。ですが、これでは困るんですよ。あなたは私に恥をかかせるおつもりですか?」

 沢城との距離はぐっと詰められた。開かれたドア、後ろには自分が乗っていた車、逃げ場のない状況で沢城は更に距離を詰めてくる。後退りなど大して出来ず、臀部は再びシートに収まっていた。

「その心意気は結構です。ですが、相手を見極められないようじゃあ、ただの馬鹿と同じだ」

 覚えておいた方がいいかと。こちらへ前屈みになった沢城の顔は陰り、口元は寡黙に閉ざされた。相変わらず、手元の封筒の居心地は悪い。例えどんなに凄まれようとも、これを受け取る理由がないのだ。封筒を手にしたまま、すぐそこにある沢城の胸元に手を当て、力なく押した。

「謝礼だと言うなら、このお金で今度、美味しいお店にでも連れてってください。……それなら、喜んでお付き合いしますから、」

 声を発したことで気付いた、自分の声は自分が想像するよりも頼りなく、か細く震えているのだと。陰る顔からは何も読み取れない。何を考えているのだろう、あの両目は未だに自分を捉えている。

「ハッ、そんな額じゃそこら辺のチンピラは買えても、一端のヤクザは買えませんよ。特に私のような人間はね、」

 ですが、そこまで言うなら考えておきます。と沢城は押し付けられた封筒を受け取ると身を引き、先程と同じようにドアの傍に立つ。もう一度席を立ち、ありがとうございました。と短く告げたところで沢城の意外な表情を見た。

「では、また明日お迎えに上がります」

 不敵に笑む。愉快で仕方ないという笑みを浮かべる沢城に心臓を掴まれたような気がした。その笑みを目にした途端、触れてはならない類の相手に触れてしまったのだと、抱いていた恐怖心が密かに変化していくのを止めることが出来なかった。



| 恐怖に錯覚せよ |


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