東都大病院では、度々屋上から飛び降りる男の姿が目撃されるようになった。上から人が落ちるのを見た人間、病院内の廊下でガラス越しに落ちていくのを見た人間、屋上へと続く階段を何度も同じ男が上っていくのを見た人間といった具合に院内、院外でその男に関する様々な目撃情報がある。
 確かに以前、この病院では男性二人が屋上から落下し、死亡した事故があった。最初は不気味だ、恐ろしいと声があがったものの、数ヶ月も経てばその事故のことは誰も口にしなくなった。あの事故は人々の記憶の中で風化していくようだ、そしてそれは自分も例外ではないと思っていた。噂の張本人である男の姿を見かけるまでは。

 自分が例外であると気付かされたのは、その病院に入院している友人の見舞いに行った時のことだった。不慮の事故により怪我をして入院を余儀なくされた友人による寂しげな呼び出しから顔を見せに行こうとしていた。長い入院生活を共に乗り切ってくれるだろうと、お見舞いの品として友人の好きそうな小説数冊を手に、友人の病室へと向かっている途中で偶然に他者とすれ違った。

 ぱっと見の印象は随分と良い身なりをしている人だと思った。体格や背丈から察するにあの人物は男性で、どこかへ向かっているようだ。お見舞い、だろうか。そう考えたのも束の間、男性の足は備え付けのエレベーターや病室の方ではなく、薄暗い階段の方へと向かって行く。近くのエレベーターが故障しているのかとも思ったが、それはない。つい先ほど自分がそれを利用して来たではないか。しかし、ただすれ違っただけの相手のことを詮索する程、失礼なことはないと気持ちを切り替えて友人の病室へと向かった。

 病室を訪れた時の友人の嬉しそうな顔と言ったらない。体の具合を訊ねていた筈なのに、気が付けば楽しく雑談に勤しんでいる。お見舞いだと手にしていた小説を渡すと友人は本当に嬉しそうな顔で、ありがとう。と口にした。余程、入院生活は退屈らしい。友人は早速渡された小説の背表紙をまじまじと見つめ、裏面の小説のあらすじを読んでいる。すると、突然集中する瞳がこちらを向いた。まるで何かを思い出したかのような反応に、どうしたの?と問いかける。友人曰く、手渡された小説の内の一冊のあらすじを読んで思い出したことがあるそうだ。
 この病院で転落事故があったの覚えてる?という突拍子のない質問に心当たりはあった。あまりここで取り上げるべき話題ではないと思ったが、それは自分も友人も知っている、とある事故のことだ。冒頭に綴った通り、この病院では過去に転落事故が起きた。それは週刊誌の記事やネットニュースでも話題になった事故で、記事の一文を覗いてみれば、極道組織と海外マフィアによる抗争だとか、あまり現実味のない文章が並んでいるだけだった。その内容が例え事実であったとしても、自分の中にはあまり留まることのない話だと読みかけの記事を閉じた。

 友人は自分が頷くのを確認すると、声を潜めて話し始めた。昨日の夜、病室の外の窓から人が落ちるのを見た。そう友人は言うのだ。相槌すら忘れて友人の告白を聞くと、更に恐ろしいことを口にする。一度だけじゃない、何度も何度もその人が落ちるのを見た、と。ふとした瞬間に窓の外を見ると、必ず一塊の黒い影は上から降って来る。そしてその刹那、必ず目が合ってしまうのだそうだ。場所が場所なだけに背筋に冷たいものが走り、寒気を覚えた。
 そんな友人になんて声をかければいいのか分からず、結局帰りの時間を迎えてしまった。別れ際、彼女はごめん。と謝り、また来てね。と自分をベッドの上から見送った。また近い内に来よう、あの話を聞いて恐ろしくなってしまったのだ、それを目撃した彼女はもっと恐ろしいと感じている筈だと、病室のドアを横にスライドさせた時だった。


 何かが窓の外を落ちて行った。上から下へと一直線に落ちて行く影。その影の塊の中にそれはあった。こちらを見つめる両目が。ぴったりと視線が重なり、一秒と経たずに逸れて消える。叫ぶことは躊躇われた、気のせいだ、見間違いだ、と得体の知れない何かを目撃した恐怖を噛み殺しながら、友人のいる病室の前を離れた。その階のエレベーターへと向かう間はずっと友人の言葉を思い出していた。

 『人が落ちるのを見た』『黒い影は上から降って来る』『必ず目が合ってしまう』友人の言葉が現実の出来事となって自分の目の前に現れた。恐怖に悴む指先の冷たさに気付く頃、再びそれを目撃していた。今度は窓の外の黒い影ではなく、廊下の奥にある薄暗い階段へ向かう人物の姿だ。友人の病室へ行く前に見た人物と同じだと知ると、何故二度も同じ階の階段へと向かっているのか、そんな疑問が湧いて出た。詮索は失礼であると分かっていながら、どうしてもその人物の不可解な行動の理由が知りたくて後を追うことにした。

 革靴の鳴る音と背の高いスーツ姿が消えてから、同じように階段を上り始める。息を潜め、足音に注意し、一段一段を上って行くのは酷く緊張した。まだ日中であるのにも関わらず、階段の踊り場には日が届かないせいか、辺りは暗い。
 それから暫くは男の革靴の音を追いかけるように階段を上り続け、薄暗い空間を仄かに照らす光が見えた頃、ようやくこの階段の終わりを知る。自分より先に辿り着いた男が扉を開けていったのだろう、数分前の男と同じように扉の前まで近づいて行くと、だだっ広く見渡す限り無機質な印象の屋上にその後ろ姿はあった。

「悪趣味な行動は慎んだ方がいい、」

 男の投げた言葉が自分に対して投げられたものだと気付かされ、心臓が跳ねた。自分の行いが不躾であると思わないのか。男の言葉は鋭利に突き刺さる。他者の後をつけ回した自分の行いは咎められても仕方のないことだった。まずは扉より向こう、同じ屋上に足を踏み入れ、無礼を詫びる。謝罪を受け取った男はこちらを振り返ることなく、更に先へと進もうとしていた。
 男のとった行動に驚く間もなく駆け寄り、真っ先に制止する。何をするつもりかと問えば、ただ繰り返しているのだと咄嗟には理解し難い言葉を吐いた。『繰り返している』と告げた男は足を止め、こちらを振り向いた。

「あなたには理解出来ないでしょうがね、私はずっと待っているんですよ。向こう側に行ける日を」

 あなたには理解出来ないでしょうがね、と前置きされた通り、男の言葉の全てを理解することは出来なかった。しかし、この言い分から察せることはあった。この男は窓の向こうを落下していった男なのだと。だから、『繰り返している』のだ。自ら命を断った者は死後もその瞬間を繰り返すと聞いたことがある。自分の前にいるこの男こそが、病院の怪異そのものなのだ。

「あの時の俺はああするしかなかった。大切な人を守る為に、俺に出来ることはそれだけだった」

 あの人が生きていれば俺はそれでいい。と言い残し、屋上に長居しすぎた男は前へと歩き出した。遺言を聞いてしまった自分にはもう止めることは出来ない。男の背中は徐々に遠ざかって行く。遠くなる背中を見つめている内に後ろから聞こえてくる慌ただしい足音と誰かの怒号が聞こえて来た。振り返る、後ろの正面には病院のスタッフと思われる人間が険しい表情で立っており、自分の元へと駆け寄ってくる。その間に風の音を聞いた。彼は再び落ちた。

 密かに振り返れば、屋上のどこにもあの男の姿はなかった。スタッフの怒号が一旦止み、院内に戻ろうと歩き出したところで衝動に駆られる。心の奥底に生まれた小さな衝動は僅か数秒で自分の思考を支配した。
 あの男が言っていた向こう側とはなんだろうか。何故だか無性に男の飛び降りた先が見てみたくなった。ふとスタッフの方を見れば、既にこちらに背を向けていて自分の企みに気付かない。それに気付かないのを良いことに、まるで道路を横切る猫のようにふらっと屋上の縁まで駆け寄ると、恐る恐る真下を覗き込んだ。高さがあるせいで地上のことはよく見えない、もう少し、あともう少しだけ前に。体がより前のめりになった瞬間、好奇心を止められなかった自分を悔やんだ。





 意識など残らないと思っていた。しかし、あと少しで消える筈だ。早く、早く、その時を、今すぐにでも。どこかで悲鳴が聞こえる。もう自分には関係の無いことだと、それを迎え入れる準備が進む。すると、不意に耳元で声が聞こえた。酷く損傷してしまった体が正常に機能しているとは思えないが、それは確かに耳元で囁いている。

「お悔やみ申し上げます。あなたのような無関係な方がこうなってしまうとは。非常に残念です」

 では、私はこれで。と耳元から離れて行く声は向こう側を目指すのだろう。何度も何度も転落を繰り返しながら、その時が来るのを待ち侘びている。意識が失われていく最後に聞いたのは、あの男の革靴の鳴る音だった。

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