ざあざあと波が海が鳴いている。真っ黒な波が寄せては返し、夜の静寂の中を鳴き続けている。辺りは夜の闇が漂う午後八時過ぎ、おひとり様にて埠頭にやって来た。大きなコンテナは潮風に所々錆び付いて物悲しげに見える。悲しい気持ちは同じだ、本当なら今頃神室町のどこかで楽しく過ごしていた筈だった。
色恋沙汰で騒ぐのは若気の至りだと思うものだが、いざ自分がその当事者になってしまえば、若気の至りという他人面した言葉は通用しない。言葉の意味がよく分かるのはいつも何かが終わってからだ。今日、付き合っていた男と関係を終えた。スッキリしない、胸がモヤモヤとする。本当は未練があるのに、それをそうだと受け入れず、攻撃的な自分がいた。それがまた一人ぼっちの自分には堪える。ああ、虚しい。やはり未練タラタラじゃないか。確かに良い人だった。口の中で言えるはずの無い言葉を練っては飲み込む。
傷付いた心情で神室町の喧騒の中には居られず、逃げるようにここへやって来た。タクシーの運転手も驚いていたようで、こんな時間帯に女が一人埠頭に行くだなんて事件の可能性を疑われてもおかしくは無い。それでもここへ連れて来てくれたことに感謝していた。一人きりの埠頭は意外と悪くない、寧ろ新鮮味さえ感じられる。悲しい気持ちではあるが、今はタクシーの運転手がくれた小さな優しさに救われていようと思う。
恨み言を散々練った後、潮風の冷たさに家が恋しくなっていた。勢いで埠頭に来たものの、いつまでも長居するつもりはなく、先程タクシーの運転手からもらった領収書をポケットから取り出そうとした時だった。豪快な笑い声が埠頭に響いた。その笑い声の大きさに体はビクリと跳ね、眼球は忙しなく人影を探し、驚きに固まった体で辺りを見る。
相変わらず海はざあざあと鳴いているばかりで、聞こえてきた大きな笑い声の主はどこにも見当たらない。気のせい、と思いたいが、まだどぎまぎとした鼓動に本当にそうだろうか?と首を傾げる自分がいる。未だ落ち着かない鼓動と疑り深い心に恐怖の匂いを嗅ぎ取る。俗に言う、嫌な予感、嫌な雰囲気というものだろう。
これ以上、ここに長居は出来ないとタクシー会社に連絡を取った。場所は埠頭、今から一台、車を寄越してもらえないかと。受付担当者の事務的な一言を最後に電話は切れた。怪奇現象は既に止んでいたのか、外部への電話はあっさりと許されていたようで、今一度自分の耳を疑っていた。しかし、あと少し待てば家へと連れ帰ってくれるタクシーがやって来る。埠頭の退廃的な風景は既に不気味なものに見えて仕方ないが、待つしかないと手にしていた携帯を鞄にしまった途端、またあの嫌な雰囲気、いや、今度は嫌な視線を感じていた。
近い、とても近いところで見られている。本当はその視線がどこからやって来ているのか分かっている。往生際が悪い。なんて不吉な言葉を選ぶのだろうか。その視線は自分の真横、真隣から向けられている。刃物の切っ先のように鋭い視線が突き刺さっており、自然と浅く呼吸を繰り返すことしか出来ない。
「さっき泣いとったんは自分か、姉ちゃん」
ドスの効いた声が問い掛けてくる。浅い呼吸ばかりの自分は声を出せず、頷くことも出来ない。次第にその声の正体が月明かりに照らされ、恐怖に覆われた影を剥ぎ取っていく。ひっ、と声を漏らしたのは自分だ。情けない声を漏らしたのには理由がある。隣に立っている男の足元に水溜りが出来ていたのだ。これがただの水溜りなら怯えることもなかったのだが、その水は鮮血を連想させる赤だった。黒い水溜りはゆっくりと規模を大きくしていく。ボタボタと何かが垂れる音に、隣にいる男が普通の人間ではないのだと思い知らされる。
「のぅ、姉ちゃん。何がそないに悲しいんや」
ワシでええなら話聞いたろうやないか、姉ちゃん。と親しげに話しかけてくる男に何も答えないまま、立ち竦んでいた。答えられる訳がない、相手が人間かそうでないかも分からない状況で身の上話など出来るはずが無い。しかし、男は笑いを噛み殺しているようで、次の言葉に心臓を強く掴まれることになる。
「……姉ちゃん、男に捨てられたんやろ?可哀想になァ、そらぁあんだけ恨み言言いたなるわ」
にやにやと男が笑っているのが分かった。恨み言、口の中で散々練っていたものの、外には一切出してはいない。男に捨てられた、それは事実だがそのことを知る人間は自分以外に居ない。
「なぁ、姉ちゃん。その男に随分勝手にされたようやが、このままでええんか?捨てる、捨てない言うたら、姉ちゃんがまるでペットと同じ扱いやったんが丸わかりや」
この男は今、何を考えていてそのような言葉を投げ掛けるのだろうか。さっきからこの男が口にする言葉は不愉快極まりない。人の傷口を勝手にこじ開けて、掻き回して、抉るだけ抉って、涼しい顔で知ったようなことを並べて。睨み付けてやるつもりだった、もうこれ以上惨めな思いはたくさんだと強く睨み付けてやるつもりだった。
「……さっきまでの威勢はどないしたんや、ああ?」
月明かりの気まぐれが影の下にあった男の顔を晒し出す。真っ先に目が捉えたのは、男の恐ろしい形相と額にある黒い穴。ボタボタとそこから黒いものが流れては下に落ちていく。穴の空いた皮膚から、肉の奥からどくどくと溢れる黒い液体が男の足元にある水溜まりの正体だ。他にも男の胴体には同じような穴が三箇所ほど空いており、そこからも黒い液体は流れ続けている。
「ワシはアンタに同情しとんのや。その男は今ものうのうと街で遊び呆けとる」
殺したろか。いっそのこと。その阿呆に捨てたこと後悔させたれや。恐ろしい囁きが無人の埠頭に消えていく。まだ来ないタクシーを恨めしく思いながら、男の呪詛を一方的に聞かされていた。ボタボタと流れていく血は量が増えているのか、足元の血溜まりを大きく広げていく。もう聞きたくない、これ以上は聞きたくない。
「あとはアンタ次第や、どうしたいか言うてみい」
男に呼び掛けられ、咄嗟に男を見た。浅くなり続けた呼吸の影響か、目の前がチカチカと点滅し出す。目眩のような症状の後、意識は暗転した。体が硬いコンクリートに触れる瞬間、どこかで誰かの声が響いたが、それ以上のことは覚えていない。
***
目が覚めてすぐに見たのは自室の天井だった。体を起こし、辺りの景色を見てここが自宅だと気付く。自分がどうやって家に戻って来たのかは分からない。もしかしたら、あの時聞こえた声の主が助けてくれたのかもしれない。
窓の外から差し込む日差しが強い暖色であると、顔を向ければ外はとっくに夕暮れ時を迎えていた。一体どれくらい眠っていたのだろう、今はいつなのだろう。素朴な疑問に駆られてベッドを抜け出た。リビングへ向かおうとすると、妙な物音が聞こえることに気付いた。その音は恐らくテレビの音だ。今まで眠っていた自分が電源を入れたとは思えないが、丁度今日の話が聞きたかったこともあり、そのままリビングへと向かった。
テレビはCMが終わり、夕方のニュース番組が再開される。画面左上の時刻は四時三十八分。アナウンサーが読み上げる原稿は最近また多発している交通事故と政治的ニュース、あとは芸能人が入籍しただの子供が生まれただのと明るいニュースだった。
自分はと言えば、近くの床に座り、あの埠頭のことを思い出していた。気味の悪い男に言い寄られた記憶は流石に残っているようで、肝心のどうやって家に帰ってきたかが思い出せない。まるで消化不良を起こしているようにもやもやとしたものが胸の辺りを刺激する。吐き気にも似た症状が現れて、そこから一気に食道を込み上げる感覚に急いでトイレへと駆け出した。どぽん、どぽんと水の中に何かが落ちていく音を聞き、潰された蛙を連想しながら固形物のない液体を吐き出し続ける。
幸いなことに嘔吐は長く続かなかった。出すだけ出したら胸のもやもやも晴れたようにスッキリとしていた。ずっと眠っていてまともに食事が取れなかったからだろうと、トイレの流水音を聞きながら二、三回ほどうがいをしてリビングに戻れば、何やら不穏なニュースが部屋に流れていた。
「先日発生した二十代男性の殺人事件ですが、未だ犯人の特定、逮捕に至っていないことから、警察は情報提供を求めています」
殺人事件、これは特に嫌なニュースだ。人が亡くなっていること、まだ犯人が捕まっていないことが背筋を凍らせる。ふと画面左上を見ると時刻は四時四十三分。嫌な数字の一分前だと再び視線をアナウンサーへ戻した途端、画面が切り替わった。
画面中央に映し出されたのは、殺害されたと思われる二十代男性の顔写真。そして殺人犯と思われる人間の情報提供を呼び掛ける文字の羅列に、胃が激しく収縮を繰り返す。ポンプのように縮んでは広がる動きをする胃袋に耐え切れず、もう一度トイレに駆け込むと体内の液体を吐き出した。これ以上、吐き出せるものはないのに、嫌な気持ち悪さから嘔吐く体を止められない。出せるものがないのにも関わらず、出そうとする体は一時的な硬直と弛緩を繰り返し、耐え難い苦痛に襲われる。目元は嘔吐の苦痛から涙で濡れ、意識が朦朧とし始める。苦しい、何も考えられないと意識が遠くなるタイミングで、耳元で誰かが囁いた。
「よかったやないか、あの阿呆死んだらしいのぅ」
その声は埠頭で聞いた男の声だ。
「姉ちゃんもスッキリしたやろ?どやった、自分を捨てた男を……」
男が言いたかった言葉を聞き終えるよりも前に、頭は全てを思い出していた。意識が途切れる直前に聞いた別の声も。
『ほんなら、ワシが手ぇ貸したる』
警察が協力を求めている殺人犯の正体も。よく知る彼がどのようにして亡くなったのかも。全てを鮮明に思い出した頃、あの男の豪勢で不愉快な笑い声が部屋中に響いていた。
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