しん、と静まり返った街を見て孤独に襲われる。つい先程までうざったいほどの人の波に揉まれていた筈なのに、天下一通りの赤いアーチを潜った瞬間に辺りは静まり返っていた。突然、急に突然、あれほどまでにいた人が姿を消すだろうか?大通りであるこの道から人が容易く消えてしまえるのだろうか?ここは神室町、眠らない夜の街ではなかっただろうか。
きっかけは、恐らく無い。こちらも自身の行動を思い返してみたが、今までに何らかの予兆や予感はなく、朝の星座占いでも六位というなんとも言えない順位だった。ラッキーでもなければ、アンラッキーでもない。つまり、つい先程まで平凡な日常の中にいた。しかし、たった一瞬でその日常から爪弾きにされてしまった。ここは何処だ、神室町のようではあるが、まるで別の街のような装いだ。
天下一通りを道なりに歩いていくと、泰平通りに出る。この道は劇場前通りや天下一通りから流れてきた人達が交差する道だ。いつもならごった返す道に人の姿はない。自分の正気を疑いつつ、今度はタクシー乗り場のあるミレニアムタワー方面へと歩いていく。静観する建物の窓枠がまるで目のように思え、突然居心地の悪さに襲われた。足早にいくつもの建物の前を通り過ぎ、ミレニアムタワー前で再び人の姿を探す。誰でもいい、自分以外の誰かの姿を確認したい。その一心で右往左往する視界は、たった一人の存在を捉える。
「どうかされましたか」
突然、その相手から声をかけられ、驚きと動揺に体は自然と強ばる。見ず知らずの他人だが、この街で初めて出会った人物でもある彼に、返事をせずにはいられなかった。彼への返事は一言では終わらず、街の異変と今自分達に何が起きているのかを口にしていた。動きの少ない表情で、もう少し話をしませんか。と彼に促されるまま、ミレニアムタワー前にあるベンチに腰掛ける。寒い季節でもないのに、ひんやりとした冷たさの残るベンチに違和感を覚えながら、隣に座る彼を見た。
「すみません、申し遅れました。私は────と申します。あなたは?」
まるで何も聞こえなかった。彼が自分の名を名乗っている間、唇は動いていたものの、声がついてこなかった。気のせいだろうか、と考えていると、彼は返事がないことに首を傾げ、あの、と僅かに眉を下げた。急いで自分の名を教えると、彼は辺りを一望し、確かに妙ではありますね。と呟く。
「もしかしたら、ここはいつもの神室町では無いのかもしれません。そして気付かぬ内に迷い込んでしまったのでしょう」
男は至って冷静だ。特にこれと言って焦る様子もなく、動揺している様にも見えない。その落ち着いた姿に何とも言えない気持ちを抱えながら、温かみのないコンクリートの地面を見つめていた。行く宛てのない足元がとても寂しそうだ。今、自分は不可解な体験をしていて、幸い一人にならずには済んだ。だが、異変から抜け出す方法はない。今から探す?どのようにして。どこかの物語の主人公のような勇気など自分には持ち合わせていない。
「困りましたね、これではあなたが可哀想だ」
そう言ってもらえただけでありがたいと思える心がある。不可解な目に遭っているのは彼も同じなのに、自分のことを気遣ってくれている。感謝はほんの十文字。彼に気持ちが伝わると、いえ、私は。と控えめに言葉を返した。
「本当にここは奇妙な場所ですね」
本当にここは……?男の口ぶりは何かを知っているように感じられ、それとなく問いかけた。すると、男は意外そうに目を丸くし、その後ぽつりぽつりと話し始めた。ミレニアムタワーではここ最近、物騒な事件が多発していること。その事件絡みで何かしらの被害を受けていること。そして必ずその事件には極道関係者が絡んでいること。男が口にしたことの殆どは自分が知っている内容だった。
一九八八年 十二月、神室町では二十一世紀再開発計画が進められ、何でもないたった一坪の土地を巡る騒動が起きた。二〇〇五年 十二月、ミレニアムタワー爆破事件が起き、神室町に紙幣の雨が降った。二〇〇六年 十二月、ミレニアムタワー二度目の爆破事件に加え、近江連合の神室町進出では街の至る所でヤクザ達による抗争が勃発。他にも男が口にした大小の事件はどれもニュースや週刊誌で取り上げられ、話題になったものばかりだ。しかし、何故こうもこの一建造物が事件の舞台となってしまうのかは分からなかった。確かに男の言う通り、この場所は些か奇妙である。ミレニアムタワーが建つこの土地にそのような性質があるかのように思えるほど。
「ミレニアムタワーが建つ前、中心部のとある一坪で殺人事件が起きました。被害者は借金のある一般人。激しい暴行の末、頭を銃で撃ち抜かれ、絶命していたと」
しかし、ただの一般人が殺されたところで、この場所が祟られるなんてことが実際に起きるのでしょうか。非現実的だと嘲笑する彼につられて笑う気分にはなれなかった。
「当時、ここを取り巻く環境と言うのは決して生易しいものではありませんでした。今では考えられないほど、たくさんの血が流れたと言っても過言ではありません」
男は淡々と、過去の出来事を口にしているだけ。傍から見ればそうだろう。しかし、どうして男の話すことが他人事のように思えないのだろう。あの薄い唇から一言発せられる度に、嫌な寒気を覚えるのだ。ぞくぞくと背中を這う寒気に体は震えていた。
「だから、もしかすると流れた血の中でタチの悪いものが混ざっていたのかもしれません。そう、例えば」
" 立華 鉄 と言う男の血、だとか。 "
男は懐かしむ瞳でうっすらと笑みを浮かべる。幸の薄い、生気の感じられない無機質な笑みだった。こういう時、自分が偶然にも奇妙な存在に出会った時、すんなりと理解してしまうのだと知った。体を襲った寒気も、抱いた違和感も、現状も全て男の言葉で成り立ってしまう。理解はさせられど、否定や拒絶は許されない。自分はどうなってしまうのだろう。
「ここは一番、 " " に近い場所ですから、自ずと上を目指す人が集まるのでしょう。そう言った人間の絶えない街でもあります、神室町は」
静まり返った街の無数の目がこちらを見つめている。男の言葉に反応するかのように、こちらをぎょろりと睨み付けては凝視している。空気が徐々に重苦しく流れ始め、呼吸する度に頭は鈍痛に悩まされた。側頭部に走る血管がズキズキと痛み出し、悪い血を無理に循環させているようだ。
「話が長くなってしまいましたね。では、そろそろ私はこれで」
男はこちらを最後に一瞥すると、ベンチを立つ。頭痛は良くなるどころか、悪化していく一方だ。体に起きた異変についていけず、ベンチに倒れるように寝そべると正面に男の姿があった。
「もう何も起こらないといいですね」
初めて他人事のように聞こえた言葉はあの男が発するには無責任すぎる言葉で、その言葉を最後に意識はぶつりと途切れた。
***
あの後、ミレニアムタワー付近を通りかかった警官に声を掛けられ、目を覚ますと辺りは人が賑わう光景に戻っていた。こんな所で寝てちゃダメでしょ。とお叱りを受けながら、頭では先程まで一緒にいた男のことを考えていた。そして、一つの引っ掛かりを胸にその日はタクシーで無事に帰宅した。
後日、あの男が言っていた立華鉄と言う人物について調べてみたものの、参考となる資料はおろか、そんな人物が実在していたという記録はどこにも残っていなかった。しかし、彼から聞いた話を嘘とは思えず、今でも時折思い出すのだ。ミレニアムタワーの近くを通る度に、何も起こらないといいですね。と言っていた名も知らぬ男のことを。彼はあの場所で起きる事故とは関係ないのだろうか。今となってはそれを知る術はない。
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