淡い橙が澄んだ青に重なり、薄く広がる雲に朝の穏やかさを実感していた。場所は八神探偵事務所。海藤はそこの調査員で、彼女は同僚の事務員である。所長の八神は未だにソファーですやすやと眠っている。火にかけたポットはもうそろそろ、中の沸騰したお湯に鳴き始めることだろう。海藤は八神のデスクに、彼女はロングソファーの向かいにあるシングルのソファーに腰掛けている。先に動き出したのは彼女で、何もかけずに眠っている八神が心配だと後ろにあるクローゼットから一枚、薄手の毛布を取り出した。そして、そっと八神の腹部にかけてやると、海藤から不満の声が漏れた。
「んだよ、ター坊には優しくして俺には何もなしか?」
「……それなら、海藤さんもここで寝泊まりする?」
突然、海藤と彼女以外の声が聞こえ、二人は驚く。声の主は眠っていたはずの八神で、ゆっくりと体を起こすと彼女に、ありがとね。と口にした。
「おい、あんま色目使うなよ。ター坊」
「あ、海藤さん、俺にやきもちやいてんだ」
「やくかよ、そんなもん。俺の方が毎日優しくされてるっつうの」
「本当に海藤さんが羨ましいよ」
「へへ、だろ?」
私の前で恥ずかしい話しないでください……。と頬を赤らめる彼女の姿に海藤は何故か胸の奥にある何かが満たされていた。八神は八神で、彼女と海藤に視線を行き来させながら、お熱くていい事じゃない、と彼女を励ましている。彼女は一刻も早くその話題から逃げたいと、今日の依頼について八神に訊ねた。八神は掛けてもらった毛布を膝に乗せ、脱走した犬探しだと手短に告げた。八神の作戦としては、まずはどこかで犬用ジャーキーなどの必要なものを調達し、依頼人がその犬と散歩していたコースを回り、後は周辺の調査という流れだそうだ。そこで八神と海藤はまず必要品の買い出しに、手が空いている彼女は二人分の食べ損ねた朝食を買いに行くことになった。先に事務所を出たのは彼女で、残された二人は沸騰したお湯でコーヒーを淹れ、冷えた体を温めていく。
「にしても、犬探しか。探偵業ってのはこんなにも軌道に乗りづらいもんかねえ」
「海藤さんもだけど、彼女にもお給料弾ませてあげたいんだけどね」
「ったく、貧乏暇なしっつっても、もう少しまともな依頼はねぇのか?」
「これも立派な仕事だから。で、大丈夫なの?二人での生活」
海藤と彼女は二人で同棲生活を送っている。元は海藤が一人暮らしをしていたアパートに、彼女がやってくる形で、そのまま共同生活が始まったのだ。
「ああ?いや、これが意外と上手くいってんだよ」
「マジで……?何か副業でもしてんの?」
実を言うとな、と海藤は至って真剣な顔で言い放つ。間を置き、後頭部をボリボリと掻きながら、俺にもよく分からん。と項垂れた。海藤の答えに、八神はうっかり口に運ぶコーヒーの量を間違え、熱っ……!と口元を押さえている。海藤は首を傾げ、じっと考え込む。八神としては不思議で仕方なかった。自分の元で働く二人には満足してもらえるほどのものは、正直に言えば渡せていない。しかし、それでも二人の同棲生活は破綻するどころか、今の今まで安定しているのだから不思議に思っても何らおかしくはなかった。
「でも、最近はマリ姉と仲良くしてるっぽくてよ」
「マリ姉と?」
「ああ。この間テンダーに顔出したら、マスターがそう言ってた」
「女同士の秘密ってヤツ?」
面白そうな秘密作りやがって。海藤さん、そう言うの寂しい派だもんね。おうよ、俺だってやたら滅多に秘密なんか作りゃあしねぇのに。じゃあ、戻って来たら聞いてみる?そうだな、八神探偵の尋問術でも勉強させてもらいますか。……今、おだててくれてもお給料上げられないからね。だよな。乾いた笑いが二つ所内に響く。
それから、海藤は今日の捕獲対象である犬の写真や飼い主から寄せられた情報に目を通していた。犬の特徴や名前、好きなドッグフードにおやつ。食べ物などは犬の好みを押さえておいた方がいいだろうと、海藤が自分のマグカップに口をつけた時。不意に事務所の扉が開かれ、コンビニに朝食を買いに行っていた彼女が戻って来たようだった。
「おう、ご苦労さん。んじゃ、早速俺らは……」
海藤は彼女の足元に見慣れぬ影があることに気付く。それは彼女の後ろで白い尾をぶんぶんと左右に振っており、心なしか依頼のあった犬に酷似しているように見えた。八神は言葉が途切れた海藤を不審に思い、同様に彼女の方を見やる。すると、やはり八神の目にも海藤と同じものが視界に入る。白いふさふさとした良い毛並みの ────。
「後ろにいるの、何?」
八神の一言にようやく彼女も真後ろの住人の存在に気付き、後ろを振り返る。すると、そこにはハフハフ、と真っ白な犬がお行儀良くお座りをして待っていた。ピンク色の舌がだらんと垂れ下がっていて、何かを期待しているようだった。彼女は何かを思い出したかのように、袋の中からさっき買ってきたと思われる缶詰めを一つ取り出した。出先でたまたま見つけたからといくつか買っておいたのだと話す彼女の足元で、その犬は何とも言えない愛くるしい目で彼女を見上げている。欲しいの?と問い掛けると、元気な鳴き声が事務所に響いた。
「じゃあ、今日の依頼はこれで完了と言うことで……」
「ター坊、ちなみに他の仕事は、」
「ないね、また後で源田先生のところに行ってみるよ」
八神と海藤は二人して項垂れ、早速崩れてしまった今日の予定の空白をどう埋めようか考えていた。彼女は犬に缶詰めを上げ、その様をじっと楽しそうに見つめている。海藤は脱力した気分のまま、彼女の傍に近寄ると犬も何かを感じたのか、海藤の前にやって来ては彼女から離れようとしない。尻尾は依然として左右にぶんぶんと揺れている。
「おいおい、なんだよ。もう懐かれちまったのか」
人懐っこい子なんですよ、きっと。と目の前の白いもふもふから離れられずにいるのが海藤は面白くない。自分もその隣に屈むと、犬の白い頭を撫でた。すると、意外にも自分でも嬉しそうに撫でられてくれる犬が可愛く見えてきた。優しくわさわさと撫で、次第にごそごそと強めに撫でてやれば、上機嫌に尻尾が揺れる。可愛いもんだなと呟くと、ふと隣の視線に気付く。ふふ、海藤さん、うれしそうな顔してる。そうか?可愛いですね、このワンちゃん。そうだな、朝飯でも食ったら散歩に連れてってやるか。いいですね。
それじゃあ、早速。と手にぶら下げたままの袋をローテーブルに置き、中身を広げていく。おにぎりは六つ、おまけの味噌汁は三つ。早い者勝ちです。と彼女が八神と海藤を焚き付けたおかげで、たった今から朝食を賭けたジャンケン大会が始まるのであった。
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