心地良い疲労は先程まで一緒に出かけていた犬との散歩によるものだった。白い彼があんまりにも人懐っこく見ていて可愛いと言う理由で必要以上に愛でてしまった自覚が二人にはあった。そんな彼は昼前、依頼人の元へ帰された。朝からどたばたと忙しかった今日、ようやく一息つける時間になったのだ。すると、次に三人を襲うのは昼時だと告げる空腹で、一緒に昼食をとろうとなったのだが、八神は用事があると先に海藤ら二人を昼休憩に入らせた。
日の高い神室町は質素な看板が並ぶ、ぎゅうぎゅう詰めの箱庭だ。そこかしこに何かしらの店が入っており、全ての店舗に足を運んだことはない。そして、その店はどれも一度目にしたら、興味をそそられるような名前をしており、時折話題に上がる。特に海藤は神室町の店事情に詳しいこともあり、気軽に話を振れば、大抵のことは教えてくれる。
例えば、天下一通りにあるビルにはテナントを募集している一画がある。そこはかつて『無利子・無担保』で『どんな相手であっても融資する』という噂のあった街金が入っていたらしい。他にも泰平通りには腕のいい闇医者が開いている医院があるのだとか。元はこの街のヤクザだったこともあるのだろう、街の至る所を知り尽くしているという印象だった。
「あの店は人妻系のヘルスだな。まあ、名前からして分かりやすいな」
何気なく目に留まった『こんばんワイフ』の看板に気を取られていると、すかさず海藤の説明が入る。しかし、彼女としては何故そんなことを知っているのか疑問でならなかった。この街に詳しいとは言え、少し複雑な心境だった。怪訝な視線を海藤に向ければ、何か嫌なものを感じ取ったのか、朗らかだった表情が一瞬固まる。
ちなみに、ここは『あっぷるぱい』ってお店ですけど。そういや、ここには前に巨乳の女子大生の子がいたとか何とか。……海藤さん。あっ。
「べ、別に俺が行ってたわけじゃねえ……!どっちかって言うとター坊の方が……、」
彼女の冷淡な視線はより冷たさを増し、鋭利に海藤を刺す。だが、これは誤解なのだと彼女に必死に弁明する。関係を持ってからというものの、そう言った店には調査以外で立ち寄ったことはないと。傍から見れば、図体の大きな男がその何倍も華奢な女にへこへこしているのだから、奇妙な光景だった。しかし、それが今の二人にはとても大切なやり取りなのだ。正直、二人の今後に係わることだろう。
冷ややか、そのものである彼女の表情はさながら氷の女王だ。その薄氷の仮面を剥がしたいと海藤は奮闘する。まずは丁度、昼時ということもあり、神室町にある飲食店の名前を上げていった。喫茶アルプス、スマイルバーガー、ワイルドジャクソン、喫茶ミジョーレなど、食欲をそそられる有名メニューがある店ばかりだ。しかし、一ミリも氷は剥がれてくれず、苦し紛れに韓来や牛遊宴はどうかと訊ねた。すると、ほんの僅かに彼女の氷にヒビが入るのを見た。今は昼時、どれだけガツンと食べても許される時間だった。たらたら、と彼女の氷が溶けていく。海藤はここぞとばかりに畳み掛ける。
「あそこのカルビがまた美味いんだよなあ。確か、連れてった日にはよく食べてたよな?」
だらだら、とどんどん溶け落ちていく氷は彼女の食欲と戦う素顔を覗かせていた。もう冷ややかではいられなくなった彼女に、今日は俺が出す。それでどうだ。と好条件を持ちかけると、遂に彼女の方が目線を逸らす。怒れる彼女をどうしても落としたい海藤は最後のひと押しにとっておきの話を切り出した。
「この間、ター坊に口利きしてもらってよ。限定もんのカルビ、食えるようにしてもらったんだが、」
行きます、韓来!連れてってください……!氷の女王が陥落した瞬間だった。海藤は言い表せないほどの満足感と達成感に気を良くしつつ、すっかり大人しくなった彼女を連れて七福通りを目指した。
***
それはあまりにも反則的な香ばしい匂いだった。食欲を大いに煽り、胃袋をぐっと掴みに来る白煙に彼女は高揚し、目をきらきらと輝かせていた。その気持ちは痛いほど分かると、海藤は彼女と共に入店する。そして、通されたテーブル席でおしぼりを手にしながら、メニュー表を開いた。とにかく、まずはカルビだと主張する海藤に乗っかり、サラダとライスも!と声を上げる。ランチメニューだけでは胃袋が満足しない二人は、どんどん注文していき、皿が到着するのを待つ。
肉を焼くならライスは必須で、焼いた肉を食べるならサラダも欲しい。となると、スープも捨て難く、だったらキムチだって食べたい。海藤は食欲旺盛な彼女を見るのが好きだった。小さな体の割りに次から次へと口に料理を運んでいく姿は見ていて気持ちがいい。そして、それだけじゃなく、これまた美味しそうに食べてくれる。だから、海藤は彼女を連れて食事に行くのが好きなのだ。まだ周りの人間がその良さに気付いていないことに優越感を抱くほどに。
厨房から運ばれて来た皿がテーブルを占めていく様は見ていて、胸が躍るようだった。たくさん並んだ内のひと皿から食べたいものを食べたいだけ、熱せられた網の上に乗せる。先にトングを握ったのは海藤で、彼女は大皿であるサラダを二人分取り分けており、網の上にある肉は身を焦がしながら焼き上がる時を待っている。脂の白が赤身の肉によく映え、彼女は待ち切れないとサラダに箸をつけ始めた。もしゃもしゃと両頬が膨らんでいく彼女に、海藤は肘をついてじっと見つめていた。よっぽど腹が減ってんだな。と口にすれば、途端に食べる手が止まる。
「俺の分まで食っていいぜ」
急いで咀嚼を済ませると、海藤さんの分はちゃんと残しておきます。野菜も食べなきゃだめですよ。とサラダを取り分けた皿をぐいっと押し付け、残りの野菜をむしゃむしゃと食べ進めていく。俺ぁ、肉と米が食えりゃあ満足なんだ。いつもだめって言ってるじゃないですか。んな事言ったって……。じゃあ、今晩何か作ってあげますから、献立決めておいてください。ハンバーグ。サラダも食べるのが条件です。……わかったよ。帰りにスーパー寄りましょうね。と彼女はようやく上機嫌になり、最後のレタスを口に運ぶとおしぼりで唇をそっと拭った。
「どうしてかは分からねぇが、作ってくれるハンバーグ好きなんだよなあ」
プロポーズですか?と笑いかける彼女に、そうかもな。と返せば、自然と目を逸らして口を噤んでいるものだから、海藤はそんな将来も悪くねえよなぁ。と立ち上る白煙に思いを馳せるのだった。
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