気付けば夕暮れ、辺りには夜の帳が降り始める頃だ。ちゃぷん、と雫が湯船に落ちては小さな波紋を作り、その余韻は徐々に薄れていく。温かな湯船に疲労した体を沈めていたのは、海藤だった。僅かに熱いと感じる湯が体のコリをやんわりと解してくれているようで気持ちが良い。既に髪や体を洗い終えた海藤はただぼんやりと浴室の壁を見つめていた。細かなタイルが均等に並んでいる。そのマス目を数えてみたり、タイルとタイルの隙間の白いラインを追ってあちこちに視線を走らせたりと自由気ままな時間だった。

 結局のところ、今日の仕事は午前中にあった犬探しだけで、昼後は事務所や街の中を行ったり来たりしていた。そして、空が赤みがかった頃、二人は事務所を後にした。昼食時に話した夕食の材料の買い出しに付き合い、先程夕食を済ませたところだった。先に入って来ていいですよ。と彼女に後片付けを任せ、今こうしてのんびりと入浴している。同棲生活の決まり事として、家事は交代制だった。出来る限りのことを出来るだけやる。簡単でいて難しい決まり事だが、海藤は悪く思っていなかった。周りの普通の人間ならば、その営みは当然のものなのかもしれない。しかし、自分からしてみれば、決してそうではない。やっと手にすることの出来た『当然』なのだ。

 ここまで来るのに時間はそれなりにかかった。初めの頃の彼女はとてもガードの硬い相手で、今のように心を開いてくれはしなかった。それでも、日々顔を合わせて行く中で心境に変化が生まれた。とある調査の途中でトラブルに巻き込まれたことがあった。その時、襲いかかって来たチンピラ達に彼女へ最後まで手出しをさせなかったのが海藤である。それが今に至る大切なきっかけだった。馴れ初めとしてはよくある話かもしれない。

 そんなことを一人でぼんやりと考えていると、妙にしんみりとしてしまって、早く彼女に会いたくなった。熱い湯に浸かりすぎた体は発熱しているように熱を帯びており、気だるさから逃げるように浴室を出ると丁度、彼女の姿があった。気まずい再会だったらしく、彼女は自分のタオルなどを抱えながら、こちらに背を向ける。もう上がるんですね、と背中越しの会話に初々しさを感じる。今更、照れるもんじゃねぇだろ。そ、そうですけど……!ったく、と海藤は悪い笑みを浮かべて、まともに拭いていない濡れた体で彼女を抱き寄せる。ちょ、ちょっと!そう言うのは着替えてからにして下さい!海藤さん!どうせ、この後洗濯すんだ。ちょっとくらい濡れたって構わねえさ。もう、私お風呂入るから離れて下さい……!
 完全に腕の中に閉じ込める前に彼女に拒否され、海藤はしょぼくれたままバスタオルに身を包む。こっち、見ないで下さいね……!と釘を刺され、海藤は後ろで聞こえる服の擦れる音にため息を吐いた。もっといちゃついてもいいだろうに、と漏らした辺りで彼女は浴室に消えてしまったようで、寂しさから風呂を上がったことを思い出す。シャワーの水音、磨りガラス越しに見える肌色に、水気を拭き取っていたタオルを元の場所に戻した。

 まだ彼女はシャワーに世界を遮断されている。気付いていないのを良いことに海藤は再び湯船に浸かる。何気なく外れた視線が海藤を捉えた時、彼女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔を如実に再現していた。そして、反射的にシャワーヘッドを海藤に向けると、声を荒らげた。

「わかった、後ろ向いてっからさっさと済ませてくれや」

 まだ彼女はぶつぶつと文句を垂れていたが、それでもシャワーの手を止めないし、髪だって洗い始めるしで、何だかんだで良しとしてくれているのがわかった。自然と口角が持ち上がっていくが、だらしのない表情は見せられないと上機嫌さを装う。それから、彼女が用事を全て済ませ、狭い浴槽に体をねじ込ませると、何故かと問われた。互いに背中越しの会話である。

「そりゃあ、体が冷えちまったからな」

 さっき出たばかりなのに?と問われると弱い。本当はひとりで浸かって物思いに耽っていたら、急に寂しくなったのだとは言えず、ウチは体が資本だからな。ともっともらしい言葉で取り繕う。その誤魔化しは既に見透かされていたのかもしれないが、……そうですね。と納得してくれる辺り、彼女の優しい性格が滲み出ていた。換気扇の音が二人の物音をかき消す。湿ってあたたかい空気が二人の肌を撫でる。少しだけ、と極めて静かに後ろを振り向けば、もうひとつの瞳とばったり出会す。濡れた髪を適当にまとめ上げ、後れ毛すらそのままの艶っぽい見た目に、海藤の中にある何かに火が灯される。近付いてしまおうと思ったが、それはすぐに制止されることとなる。

 だめです、これ以上は見えちゃうので。逆にそうやって隠すから良くねえ。海藤さんは気にならないかもしれないですけど、私はそういうのじゃないので。つれねぇなあ、俺ぁ誰にでも大っぴらじゃねぇんだぞ。わ、わかってます……!駄目だと言われると余計に、という心理が働くと実感した。ぐいっと詰めれば、すっと離れていく。もう一度詰めれば、彼女の背中が狭い浴槽の端にくっつき、逃げ場を失う。ぱら、ぱらと彼女の前髪が額に一束ずつ垂れ下がっていく。暗い色味の綺麗な髪だ。毛先を伝う水気を指先で絡め取り、横へと流す。目は合わない。合わせてくれないが、不満なことは何もない。自分のせいで心が乱されているのが目に見えて分かるのだから、これは悪い遊びだと笑んでいることさえ、彼女は知らないのだ。

「神室町のどこを探しても、こんなにいい女はいねえだろうよ」

 海藤の本心から出た言葉に彼女は瞬きの回数を増やしていく。愛おしさとは日常の細部に宿るのだろう。それが微々たるものであっても、高望みをしない自分達だからこそ、実感していられるのだと最後の余白をぐっと詰めた。しかし、濡れた唇は彼女のものと重なりはしなかった。ぷいっと顔を逸らされ、途端に調子が狂う。そして、遂には、先に出ますね、私。と湯船に置いていかれそうになり、海藤も急いでその後を追う。しなやかな体が湯船をすり抜け、屈強な体の男の頬にそれを寄せる。海藤がし損ねたキスを彼女が逆襲としてお見舞いしてみせる。その直後に見た彼女の笑顔に海藤はしてやられたと思うのだった。



| 黄昏 |


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