寝息を立てる彼女の横を通り抜けて、まだ誰もが眠りに落ちている世界で一人目覚めた男はベランダで煙草を燻らせている。夜が明け、黒が抜けていく空は薄らと青が透けて見えてくる。立ち上る煙のように広がる雲はまだらに散らされ、暖色のグラデーションに沈む。色づいた頬のように赤らむ空はとても幻想的だった。こんな時間に一人でそれを見ているのが勿体ないと思うほどに、今の時間の空は綺麗だったのだ。

 口を伝って体に流れ込む煙の苦味に微睡みは覚め、物思いに耽ってしまうほど静寂なる時間に海藤はもう一度煙草を食む。話し相手が居ないというのは確かに寂しいものだったが、たまには一人きりでも良いのかもしれないと思った。やらなければならないことに限りはあるが、考えなければならないことに限りはない。面倒だと感じることは多々あっても、何だかんだ最後には色んな形で決着がつく。それならば、駄目でも、面倒でも、無謀でもやらざるを得ない。それが積もりに積もって、彼女と共にある今に繋がっている。

 彼女は何故か気になるタイプの相手だった。大して稼ぎにならない探偵業、特に八神の元で事務員として働くことに躊躇いが見えない姿に、周りのOLの方がまだ煌びやかに見えるほどだ。それでも、彼女は八神探偵事務所の事務員らしく、自分や八神のサポートに回ることはざらだった。だが、見た目とは対照的に自分の意見はしっかりと相手に伝えられる人間だと知った時には驚くどころか、より目が離せないような相手に昇格してしまったのを覚えている。女だろうと男だろうと、一本しっかりとした芯のある相手には贔屓目なしに好感を抱く。だから、彼女もその一人だったのだろう。ガードの硬さも芯がある人間なのだと思えば、疑問に思うところはない。

 彼女は良くも悪くも、一同僚としてあり続けた。所長である八神に対しても自然に接し、態とらしい上下関係を微塵も感じさせたことはない。自分に対しても、どんなに口説き落とそうとしてみても全く隙を見せず、入り込む余地を与えてくれなかったのを覚えている。口説くと言うよりかは仲を深めたいだけだったが、彼女は必要以上に親しくなるのを拒んだ。海藤と出会って暫くは少し勝気なところがある可愛い後輩に留まっていたものの、とある事件をきっかけに二人の距離は徐々に縮まっていった。
 それは尾行調査の途中で見舞われたトラブルだった。二人組の通行人という体で調査対象の男を追っていたのだが、逆に彼の仲間が待ち受ける路地に誘い込まれ、窮地に陥ってしまった。その際、十数人といるチンピラを相手にしながら、海藤は彼女に手を出させはしなかった。しかし、その話には続きがあり、彼女がそうしてくれたからこそ、海藤は彼女に対して明確な気持ちを持つことになる。


***


 陰惨な光景の路地は倒れた人間より、その場に立っている人間を数えた方が早い。息を切らし、身を挺して自身を守ってくれた海藤に背後から近寄る人影があった。その人影に気付いていたのは、物陰に隠されていた彼女だけで、勢いのまま駆け出す。海藤は彼女の必死の形相にようやく背後の存在に気付くが、体力の消耗した体は咄嗟に動くことを許しはしなかった。相手は手にした鉄パイプを振りかぶる。回避すら間に合わないと思った瞬間、その男に彼女が飛びかかった。彼女は自分や八神のように力を持たない人間であると知っていた。だからこそ、自分を庇うように男に飛び付いた彼女が振り払われる姿を見た時、海藤は男の隙を突き、今度こそ確実にコンクリートに沈めてやったのだ。

「おい、大丈夫か……!」

 彼女は尻もちをついたまま、海藤さんこそ、大丈夫ですか……?と震える声で苦笑していた。振り払われた時に彼女は体を強打したのだろう。服には汚れが付着しており、膝からは血が滲んでいた。私は、大丈夫です。……ただ、少し。『怖かった』とこぼした彼女からぽろりと涙が落ちるのが見えた。怖くて当然だと、彼女の肩に手を添える。気休めでも良いから、彼女の恐怖を拭えるならと。

「でも、正直助かったぜ。あんなもん、食らっちまったら俺ですらただじゃすまねえ」

 ……よかった、よかったあ……!と彼女は緊張の糸が途切れたのか、わあわあと泣き出し、海藤を今までで一番驚かせた。普段見ている姿とかけ離れた姿に、芽生えた気持ちがあった。親しくだとか、口説くだとか、そのような軽いものではなく、堂々と彼女の涙を拭ってやれるような相手になりたいと言う、大真面目なものだった。頭でごちゃごちゃと考えるタイプではないと分かっている。分かっているが、慎重になりたがっている自分に嫌気が差し、海藤はすぐさま彼女の体を抱きかかえると、足早に路地を離れる。

 海藤さん、ちょ、ちょっと下ろしてください……!何言ってんだ、そんな足で歩かせられるかよ。で、でも、その、これは……。遠慮はいらねえ、今は先輩に甘えとけ。いや、でも。なんだよ、俺じゃ不満か?……そうじゃなくて。じゃあ、なんだよ。
 は、恥ずかしいです。と顔を手で隠す彼女に、海藤は首を傾げていた。何が恥ずかしいのかと問えば、……人の目がありますし、とか細い声でごにょごにょと呟いている辺り、慣れていないのだと分かった。それに安心する部分もあるが、今になってやっと彼女の素に触れるとは、長い道のりだった気がする。恥ずかしいと主張する彼女の為に、なるべくは人の目に触れない道を選んで事務所へと戻ることにした。腕の中の彼女は事務所に着くまで顔を手で覆い隠していたのを今でも忘れられない。


***


 短くなった煙草を持ち出していた灰皿で捻じ消し、布団に戻ろうと部屋に戻れば、眠たそうに目を擦りながらベランダに近付いてくる彼女の姿があった。起きちまったか?と海藤は灰皿をテーブルに置く。すると、……隣にいなかったから。と彼女はふらふらと胸に飛び込んで来る。のそっと寄り添って来た彼女の頭に手を添え、もぞもぞと撫でてやれば、う〜〜、と眠たそうな声が聞こえ、彼女の体が冷える前にまだ暖かな布団に戻って行くのだった。赤らむ空にあと少しは眠っていいと言われたような気がして。



| 東雲 |


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