八神探偵事務所は昼食を終えた後の暖かな日差しにゆったりと過ごしていた。今日は三人で昼休憩に入り、九州一番星で美味しいとんこつラーメンを堪能してきた。満腹感に皆が良い気分のまま、今は事務所で食休み中だ。暖かな日差し、満腹感、それらは心地よい微睡みを引き寄せ、三人はうとうととしていた。すると、事務所の扉が開き、微睡む一室にやってきたのは、一人だけ足取りの軽やかな杉浦だった。
「あれ、みんなお揃い?」
杉浦の一言にまずは八神が反応し、次には事務員の彼女が。しかし、海藤からは反応がなく、皆一斉に窓際のシングルソファーにもたれる海藤を見た。腕を組み、その目は閉ざされている。今日はとても温かい日だった、春の陽気を思わせる麗らかな日だ。ならば、海藤が春の陽気に誘われて微睡み、眠りに落ちてしまうのは仕方の無いで、周りもそれを咎めたりはしなかった。
事務所を訪れた杉浦は八神と海藤に用があったらしいのだが、春先の心地よい昼寝に落ちている海藤を起こす気にはなれないと、八神を連れていくことにした。しかし、念の為に海藤が起きた時には杉浦の用事について話しておいて欲しいと伝言を預けられ、彼女は八神と杉浦の二人を階段先まで見送る。
「海藤さんがお昼寝してるなんてね」
「まあ、ついさっき皆で腹いっぱいメシ食ってきたからさ」
「え〜、それなら僕も誘ってくれれば良いのに」
「もうちょっと早ければ連れてったさ」
ピンク通りの九州一番星にね。へえ、でもあそこって凄い大盛りのメニューがある所でしょ?大丈夫だった?うん、お腹減ってたし、私より八神さんや海藤さんの方がたくさん食べてたし。でも、この二人に付き合えるなんて凄いね。杉浦くんにそう言われると、恥ずかしいなあ。いいことだよ、いっぱい食べるのは。じゃあ、今度は四人で行こうね。うん、その時は連絡ちょうだい。
八神と杉浦に手を振り、一人事務所へと戻って行く。まだ海藤は眠っているのだろうかと、扉の小窓から中を覗けば、見慣れた寝顔がソファーに残されていた。柔らかな陽を背にして眠る姿に傍に居たいと思い、中に入っては近くのロングソファーに腰掛ける。八神や杉浦、本人さえ言ったことはないが、彼女は海藤の寝顔を見るのが好きだった。普段、目にする姿とは打って変わり、素に近い姿を見ているようで好きなのだ。だから、夜になり、一緒に眠る時は海藤より後に眠るようにしている。それは布団の中での戯れより後の話だ。そして、一日の終わりに大切な人の穏やかな寝顔を見て、自分も一日を終える。これほどまでに幸せで満ち足りたことがあるだろうか。
***
それはふとした瞬間に気付いた。自分でも手遅れなくらい海藤のことを考えるようになっていた。勿論、例の事件で自分との距離が想像以上に縮まったことも大きく関係しているのだろう。膝や手を擦りむいただけだったが、海藤は事務所まで抱えて運んで来てくれた上に、慣れぬ消毒まで施してくれた。その時は気恥ずかしさから遠慮ばかりしていた。しかし、自分の怪我の責任は海藤自身にあるのだと譲らず、押し切られる形で手当てを任せることにした。まずは救急箱の場所から始まり、次は患部の汚れを落としてもらい、消毒。そして、最後に簡単な手当てまでやってくれた。申し訳なさをこぼしてしまうと、気にすんな。元はと言えば、油断してた俺が悪い。と優しい言葉をかけてくれる。そんなことはない、大勢の殆どを自分に向かわせることなく、あの場をやり過ごしてくれたのだから。
「どうした、他に痛むところでもあんのか?」
首を横に振る。手と膝の他に怪我はしていません。海藤さんが守ってくれたおかげです。ありがとうございました。と深く頭を下げれば、よしてくれ。そんなもんはいらねぇよ。と海藤は言う。だが、そんな優しさでは気が収まらない。お礼という二文字を並べれば、そう言ったものに敏感なのか、余計に遠慮されてしまい、やりづらい。命に係わる危険な場面で助けてもらっておきながら、何も返さない、何も出来ないのは我慢ならなかった。ずいっと近寄れば、うおっ、と仰け反る。すると、海藤は一つだけ頼みたいことがあると口を開いた。
「なら、明日も事務所に来て、元気な顔見せてくれ。そんで、いつもみたいに笑ってくれれば、それでいい」
本当にそれだけですか……?おうよ、この事務所は男しかいねぇもんだから、息苦しくていけねえ。で、でも。そうだな、そこまで言うなら ──── 。
「今度、俺に付き合ってくれ」
飯でも、飲みでも、デートでも、何でもいい。海藤は照れ臭いのか、後頭部を掻きながらこちらを見た。すると、不思議なもので申し訳なさが静かに萎んでいき、自分の一番柔らかくて弱く、大切な場所がほんのりとあたたかくなるのを感じていた。今まで同僚という括りから出なかったのは、一従業員としての務めだと思っていた。しかし、今は必要以上にとは言わないが目の前の垣根を越えてみても良いのかもしれない。精一杯、気持ちよく返事をしてみせる。ホテル以外ならどこでも付き合います。と添えれば、冗談だか本気だか分からない顔で苦笑していた。
***
眠りの終わりを迎えたのか、脱力していた額に皺が寄っていく。もうそろそろ目覚めるようで、名残惜しさを上手く処理しながら、いち早くおはようございます。と声をかける。
「……おう、眠っちまってたか」
まだ意識のはっきりしない海藤に、事務所の冷蔵庫から緑茶のボトルを渡すと、まだ眠たそうな表情でそれを傾けた。それから、八神が杉浦と出ており、後から合流してほしい旨を伝えると、海藤はソファーから立ち、ぐぐぐ、と力んで背伸びをしていた。腕を回し、首を回し、やっとはっきりとしてきた視界に、海藤はすぐ出るそうだ。先程の二人と同様に階段先まで見送ろうと席を立てば、いや、ここで良い。と通り過ぎざまに頬に軽く触れられ、唖然としてしまう。
「すぐ戻るぜ」
いってらっしゃい。と口にすることしか出来ず、そのまま力なくソファーに腰を下ろす。誰もいない無人の事務所、ひとりきりだからこそ言わせて欲しいことがある。……一々、かっこいいなあ。とぼそっと呟いたところで、沸騰したやかんの如く頬が熱くなり、急いで窓を開けて外の風を取り入れた。
| 白日 |back