帰宅してすぐ彼女はカレンダーを見て、動けなくなっていた。あんまりにも身動き一つ取らない彼女に、海藤も同じように隣に並び、カレンダーを見た。三月二十五日の欄には、丁寧な字で『記念日』と書かれ、おまけに赤丸までも書き加えられている。ゾッとしているのは彼女だけで、隣の海藤は首を捻っている。

「記念日だあ?何のだよ」

 彼女はまだゾッとしているようで、返事がない。ちらり、と横目で盗み見れば、今必死に頭をフル回転させているようだった。大丈夫か?と声をかけると、ようやく彼女も反応してみせる。一定のトーンで、……今日は私と海藤さんが付き合った記念日ですよ。と震える唇で言った。海藤は咄嗟に口を閉ざし、目を逸らす。完全に間違った言葉選びをしてしまった。そして、確かにそう言われてみれば、去年のこれくらいの時期に関係が始まったように思う。やはり、恐ろしくて彼女の顔が見れない。

「悪い!そういうつもりじゃねぇ、ただちょっと勘違いしてたっつうか……!」

 ごめんなさい。と真っ先に謝りが飛んで来て、彼女の方を見た。とても困った顔をしていた。眉尻は下がり切っており、表情も浮かないままだ。彼女曰く、本当なら今夜は神室町で美味しい料理を食べているはずだったと。彼女は少し値の張るレストランに予約を入れ、今日を祝いたかったのだそうだ。それに海藤への贈り物も考えていたが、実現出来そうにないとひどく落ち込んでいる。

「そんな小洒落たことしなくってもいいだろ。俺はいつも通りで構わねえ」

 そうは言ってもと中々諦め切れないのが言葉から読み取れた。こう言うものは一年の内でそうそうやって来るものではないと思えば、彼女の気持ちが分かるような気がして、海藤も何か考え始める。正直、記念日だからと無理に張り切って、特別な一日を演出しなくてもいいと思っていた。隣には彼女がいて、自分達の家で二人揃って過ごせること以上の喜びに勝るものはない。それ以上の喜びはあってもいいのかもしれないが、あまりにも現実味がなければ虚しくなるだけだ。だが、それをどう伝えればいいのかが分からない。八神のように上手い言葉を知っている訳でもないのが悔やまれた。さて、どう伝えればいい。
 ちなみに『いつも通り』って言うと、今晩はカレーになりますし、お風呂上がりはビールとカシスオレンジですし、今日も映画見ちゃいますよ。彼女が口にした今夜の予定はやけに魅力的だった。思わず、それでいいとこぼしてしまったほどだ。彼女は目を丸くして海藤を見ている。意外と言いたそうだ。

「それのどこが駄目なんだよ?いいじゃねぇか、俺は断然そっちを選ぶぜ」

 だ、だって、今日は普通の格好だし、あんまり頑張ってない日だし。と言葉の切れが悪いのは、彼女にも譲れないものがあるからだろう。海藤は彼女の繊細な部分の扱いに関しては抜群に上手い。

「何言ってんだ。おめかしなんかして外出ちまったら、街の男共が釘付けになっちまうだろうが」

 沈んだ鉛のような瞳が一気に輝きを帯びる。研磨され、磨き上げられた宝石のように瞳はその色彩に光を閉じ込めていた。瞬きの間に輝きがぽろぽろと繊細な音を立ててこぼれ落ちていく。頬も薄らと色付き、桃色に映える肌はより彼女を魅惑的に変化させる。蝶よ花よと愛でるように、溺愛っぷりを惜しげもなく披露すれば、彼女も充分に満たされてしまったようで、やけに張り切った様で、カレー作っちゃいますね!と上機嫌で台所に向かっていった。

 彼女が流しの前に立ち、手を洗っている後ろ姿から何故か目が離せなかった。不思議ととても大切なことのように感じられ、海藤は自然と彼女を後ろから抱き締めていた。静かな抱擁に彼女は明るい声で、どうしたんですか、いきなり。とくすぐったそうにしている。センチメンタルな性分ではないと思っていたが、ふとした情景に心を揺さぶられる時がある。先程の、彼女の背中を見つめている時のように。

「やっぱり、俺の女はいい女だと思ってよ」

 ふふ、褒めても大盛りにしかしてあげません。お、気前がいいねぇ。もう一声!……それじゃあ、お肉も少し多めに入れておきますね。話のわかるいい子だよ、本当に。ふにゃふにゃ、でろでろと緩み切った顔で笑っているのが想像出来た。彼女は褒め落としに滅法弱い。だが、自分以外の人間の世辞は本気にするどころか、上手く躱してしまうのだから、自分にだけ特別でいてくれる彼女に首ったけになってしまうのも無理はない。と、自分では思っている。

「俺には勿体ねえくらいにな」

 私にだって海藤さんは勿体ないかもしれません。んなこと、あるわけねえ。ええ、私もそうだといいなって思ってますけど。どうだったとしても、俺は今のこの生活が好きだぜ。全部同じです、私の考えてることと。
 オレンジ色に包まれながら、彼女は夕飯の支度に取り掛かる。海藤がくっ付いていることで支障が出るかもしれないと分かっていたが、そのままでいたかったのだろう。そして、海藤もくっ付いている内に、もう少し深くに手を伸ばしたくなった。彼女の体に回した腕で少し強引に抱き寄せると、首筋の薄皮を食む。突然の行為に彼女は小さな悲鳴を上げ、海藤を制止する。な、何してるんですか……!なんとなく、こうしたくてな。なんとなく、って。はっきりしない曖昧な返事に、彼女は海藤の変化を感じ取っており、ぼそぼそと今日の体調だとかのお伺いを立てれば、案の定その通りで彼女は恥じらいながらも『良い』とだけ答えた。

 すると、許しをもらった犬のように背後の海藤はもぞもぞと体に触れ始める。い、今は、まだ駄目です……!とガードを固めた彼女に釘を刺され、その姿はしゅんと落ち込む大型犬のようだった。海藤は彼女の体に這わせた手を元の位置に戻すと、彼女の手元の動きを静かに眺めては柔らかに笑う。いつか、その左手に指輪を贈ってやりたい。まだ姿形を見せてくれない未来に先に取り付けておく。彼女の左手に指輪を贈る約束を。だから、今はこの夜が明けてしまうのを惜しみながら、明日へ向かうことを受け入れていくだけだ。

 不意に愛を囁くと、遅れて小さな声で自分もだと聞こえ、小っ恥ずかしくなってきたぜ。と海藤は火照る頬を彼女の肩に押し当てた。



| 可惜夜 |


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