ソファーの使い込まれた革の鳴る音でなんとなく目が覚めた。目の前には視界を塞ぐようにして置かれた週刊誌の一面。邪魔な雑誌を顔から剥がし落とすと、真向かいのもう一つのソファーには怪訝そうな顔をした彼女が座っていた。さあっと何かが冷えていく感覚に、咄嗟にカレンダーを見た。事務所のカレンダーは丁寧にバツ印を付けてられており、今日が彼女とのちょっとした約束の日だったとまざまざと教えてくれる。恐る恐る彼女に呼びかけてみるが、返事はない。もう一度呼びかけたところで彼女もまた眠りに落ちた一人なのだと気付き、ほっと胸を撫で下ろす。
 まずは、と懐の煙草に伸びる手を止め、今更ながら灰皿に溜まった吸殻をこっそりと捨て、今度こそ自分のジャケットに手をかける。そして怪訝さを眉間に残したままの彼女にそっとジャケットを掛けてやり、申し訳ついでにその眉間を極めて優しく伸ばしてやる。すると、眉間の皺は消え、安堵の溜め息が漏れた。しかし、……秋山さん。私、起きてますよ。と名を呼ばれた男の見せた安堵ごと釘に刺される。

「お、怒ってる……?」

 勿論と言いたそうな顔で彼女は秋山の方を見ると、自分との約束よりソファーで寝るのは良くないと体を気遣われた。あとは煙草の吸い過ぎやコーヒーの飲み過ぎ、ジャケットの皺うんぬんを突きつけられ、秋山は妙な違和感に襲われる。頭の中ではぐるぐると約束のことばかりがつきまとう。

「言いたいことはわかった。その言い分はごもっともなんだけど、……他に、あるんじゃない?その、今日のこととか、」

 自ら燃え盛る火に飛び込むようだった。だが、一向に咎められないくらいなら燃えてしまった方が気が楽ではあった。秋山の一言に彼女は少しだけ驚いたようで、覚えてたんですね。と零した。そりゃあ、そうでしょ。大切な予定なんだから。と取ってつけたところで、彼女はこうも言うのだ。

『だって、秋山さん。約束の時間に間に合ったことなんて滅多にないじゃないですか』

 だから、それについては特に怒ってませんよ。今日もそうだと思ってましたし。と心底怒りを感じさせない、いつもの口調で言い切ってくれるのだから、こちらとしては非常に痛いところを突かれた気分だった。ごめんと添えても、秋山さんも若くないんですから体は大切にしないと。と痛烈な返事が帰ってきて、やたらと苦しい。

「も、もうちょっと優しい言葉かけてくれない?」

 清々しい程の痛烈な心配事に秋山は、それとなく彼女に甘えてみた。心配されることの意味を知らない年齢ではないが、もうそろそろ優しい言葉の彼女に会いたいのだ。自分の言葉が秋山に刺さっているのだと見てわかった彼女は、小さく笑い、こういうことしてくれる秋山さん、好きです。と愛おしそうに秋山のジャケットを胸に抱く。
 一応、念の為に、最低限の確認事項として、ここに本人もいるけど。と提案してみれば、彼女は吹き出すように明るい笑い声を上げ、それじゃあ行きましょうか。と一人席を立った。


***


 え?と目の前の彼女は目を丸くして絶句しているようだった。無理もない、自分だってまだ驚いているのだから。無理もない、自分だってたまにはいい所を見せようと奮起していたのだから。待ち合わせの二十分前に約束の場に着いたのは、本当に稀なことだった。今までならば、五分、十分、十五分……、下手したらそれ以上に遅刻をしていた。けれど、先日のこともある。彼女はきっと自分に期待をしなくなっただろう。何故なら、過去の経験から、秋山駿とはそういうルーズな人間だと位置付けられてしまったからだ。
 ならば、そんな彼女にいい所を見せたいと思うのは自然ではないだろうか。今日は、今日だけはこまめに時計を見て時間を確認し、こなすべき仕事は先に片付けるか、猶予があれば後回しにした。正直、ここまで気合いを入れて彼女との約束に臨んだことはなかった。ここまでしなければ、まるで十数年来の夫婦のように当たり前と化してしまった関係が若返りはしないだろう。この日の為に煙草はなるべく控え、コーヒーも控えた。ソファーで寝ることで体やスーツを痛めるからと、きちんと自宅に帰り、部屋着に着替え、ベッドで寝ることを努力した。

「約束の時間よりちょっと早いけど、もう行こうか」

 未だに驚きが抜け切っていない彼女の隣に立ち、うん?と顔を覗き込んで見ると、明らかに様子がおかしいのが分かった。確かに今までに比べてかなりしっかりした流れで、彼女との約束を優先させたが、そこまで衝撃を受けるほどのことでは無いはずだ。ぎこちない空気が流れていくのが分かる。自分は至って普通であるのに、彼女がまだ追いつけていないのだ。あ〜……、と言葉を濁しながら、彼女の手を優しく取り、子どもを連れ歩くように街並みに溶け込んで行く。ひょこひょことした足取りが未だに彼女の中に衝撃が残っているのだと教えてくれた。

「そんなに意外だった?俺もさ、たまにはちゃんとやる男なんだよ」

 その言葉に彼女は小さく零す。秋山さんっぽくないです、すごく。秋山さんじゃなかったら、惚れてました、でも。……でも、秋山さんじゃなかったら、こうして理由を作って付き合ってもらってませんでした。とやけに耳触りのいい言葉が聞こえてきたことに言葉を失う。どこか駄目な自分を叱りながらも受け入れてくれている彼女が途端に魅力的な相手へと変わっていく。ここ数年は経験していなかった、胸のざわめきに心臓ごと吐き出してしまいそうだった。それ程までに隣にいる、照れた彼女に惹かれていた。

「折角、かっこいい演出とか頭に入れてきてたのに、今のでどうでもよくなっちゃったよ」

 わ、私、何か気に触ることでも言いましたか……?!と今度は慌てふためく顔に、不貞腐れた顔でこう返す。

「こんな俺がいいんでしょ。だったら、無理にかっこつける必要ないなあって」

 多分、気持ちが冷めちゃうだろうから。とまで言い切ったところで、彼女はようやく笑顔を見せた。小さく吹き出すような、彼女らしい表情の緩やかな笑顔。きっと、自分達は先程まで全くの他人でいたのだろう。だが、もうその必要がないのなら、多少は欲を出してもいい気がした。

「お互いの気持ちもわかった事だし、少し静かな場所に行かない?二人っきりで話が出来る所とか」

 そうだなあ、場所的にはバッセンの辺りなんだけど。……冗談でも本気でもお断りします。秋山さんの貞操観念どうなってるんですか。じょ、冗談だって!本当に!
 じとついた目線が送られ、先程まで恥じらう少女のような彼女は跡形もなく消えてしまったようだった。だが、嫌な気一つしないのだから不思議だ。寧ろ、心地よい戯れのように感じられる。すると、再びくすくすと囀るような笑い声が聞こえてきたせいで、つい、つられて笑ってしまった。



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