「たとえば、もし俺がお金持ちになっちゃったらどうする?」

 え?と手羽先を頬張る彼女は突然話を振られ、口元に食べかけのそれを残していた。そのポカン顔が新鮮で、品田は彼女の滅多に見ることのない表情に顔を綻ばせていた。彼女は、想像出来ないなあ。辰っちゃんがお金持ちなんて。と次のひと口を齧っては両頬を僅かに膨らませる。彼女の素っ気ない一言に品田は、自分がなんとなしに膨らませた夢がしょんぼりと萎んでいくのを感じていた。

「そりゃあ、空からお金が降ってこない限り叶いそうにない夢だけどさ、」

 ちまちまと手羽先を口に運び、ふふふ。と笑っている彼女を見ては叶いそうにない夢を深追いする。たとえば、二人で美味しいご飯を食べに行ったり、旅行に行ってのんびりしたり、今のプレハブ小屋を出て二人で住めそうな部屋に引っ越したり。全ては彼女にもいい思いをさせたいという気持ち故に、だ。今の自分には無いものばかりで、彼女にはそれなりに心配をかけてると分かっている。だからこそ、心のどこかでしっかりしなきゃいけないと自分を奮い立たせてはいるのだが、そう現実は甘くない。変わりたい思い、変われない毎日。どこかで逆転ホームランを決めたくとも、それすら叶わない今に、つい現実逃避だってしたくなるものだ。

「俺だって子供っぽいこと言ってるなとは思ってるよ、勿論」

 お金がなくても辰っちゃんのこと、好きなんだけどなぁ。でも、と続けた彼女はくすくすと笑いを堪えきれないまま、でも、お金がある辰っちゃんも好きだなぁ。と肩を揺らして笑っていた。……それ、好きなの俺じゃなくない?え、ううん、そんなことないよ。とおどけたまま、彼女はすっかり骨だけになってしまったそれを自分の手元にある取り皿に移し、まだ真っ白なおしぼりで指先の油分を拭う。

「好きな子のお願いくらい聞いてあげたいんだよ」

 ため息混じりにそう告げると、彼女は手にしたおしぼりを広げては小さく畳み、綺麗な面で品田の口元を拭った。ごしごしと遠慮なしに口元を拭っていく様に、自分の不甲斐なさを見えた気がして密かに気落ちする。しかし、彼女はそんなことさえ気にせず、今でも充分なくらい辰っちゃんは私のお願い聞いてくれてるのにな。と宥めるように微笑んでいた。
 本当に?こんな俺だよ?本当に。多分、私の両親の次にお願い聞いてくれてるよ。そう、かな……?うん。彼女が何度も頷く度に不思議と満たされる心があった。ほんの少しだけ空いていた穴が塞がったかのように、心はどんどん彼女の言葉や反応に満たされていく。たとえば、の話も好きだけどさ、明日もまた会えるかどうか知りたい。と照れ臭そうに言うせいで、品田にはもう例え話をする余裕はない。


***


 目が覚めて寒気がした。数秒前までは夢心地だった。まさに書いて字の如く、夢心地だったのだ。滅多に当たらぬ紙切れ同然のクジが大金へと化ける夢、これでようやく苦労させてきた彼女に良い思いをさせてやれると喜んでいた最中に、無慈悲にも夢から叩き起された。ぬか喜びした分だけ、何も持たぬ現実に絶望する。人恋しさに拍車がかかった瞬間、お世辞にも家とは呼び難いプレハブ小屋のドアが開く音がした。それと共に朝のひんやりとした空気が中に流れ込む。そして、おはよう、辰っちゃん。と彼女の明るい言葉が聞こえたところで、限界だった。
 さぞ、情けない男に映ったことだろう。まさか、自分もこの歳になって泣くとは思ってもいなかった。ただ、あまりにも残酷な夢だったのだ。彼女は自分より大きな体の男を優しく抱き締めてくれている。どこまでも落ちてしまう気分を彼女は許してくれていた。理由を聞かず、気が済むまで受け止めてくれている彼女に引け目を感じてしまうのは、自分が卑屈な人間だからだ。

「あんな夢、もう二度とごめんだね」

 夢の全貌を話せば、彼女は笑うでもなく、呆れるでもなく、怖かったね。と頷いてくれた。これでは遠回しに夢を掴むことはおろか、夢を見ることすら許されていないと突き付けられているようで。

「俺だって、今より安定した生活を送れるようにとか考えてるんだけど」

 やっぱり無理ってことかな。と悪夢の後遺症に悩まされていると、今まで優しく抱き締めてくれていた彼女が眉を緩やかに吊り上げて、それは違うよ。と言い放った。強い眼差しに彼女が怒っていると知り、ごめん。と口走れば、余計に彼女は不機嫌な顔をしていた。謝らなくていいの、辰っちゃんは少しだけ欲張りだっただけだよ。と不機嫌な表情をやめて、いつもの笑顔を見せてくれた。

 私のこと、大切に思ってくれてるのは知ってるし、すごく嬉しい。でも、そのせいで辰っちゃんが無理をするのは嫌なの。……だって、俺、こんなだし、周りに比べたら甲斐性もないんだよ。ねえ、甲斐性ってそんなに大切なの……?
 彼女の言葉の最後には、私よりも……?と続き、そこでハッとさせられた。私は辰っちゃんの方が大切だし、そういうので辛くなるんだったら……。私、別れる。と小さく振り絞るような声でそう告げた。まさか、そう告げられるとは思ってもおらず、品田は静かに俯いた彼女へ縋るような視線を送る。

「な、なんで、それとこれとは別の話でしょ……?」

 再び涙に見舞われる、その時だった。頬に柔らかな感触がした。柔らか感触の後にやって来たのは、好きな香りだった。荒んでいた気持ちが落ち着く、彼女の香りだった。……言ったじゃない、お金がなくても好きだって。今度は彼女のか細い声が聞こえてきた。本当に悲しくて、少しだけ怒っているような声が。目の前には柔らかな怒りの感情がある。それは自分が生き急ぎ過ぎて見落としていたものだ。焦りがないかと言われれば、嘘になる。負い目や引け目ばかりを感じてきた。時には不条理な現実に自暴自棄になってしまいたくもなった。けれど、まだこうして踏ん張っていられるのは、彼女がいたからだ。
 落ち込んでいれば、彼女は前向きに励ましてくれる。泣いていれば、彼女は何度でもきつく抱き締めてくれる。怒っていれば、彼女は一緒に怒ってくれる。笑っていれば、彼女は誰よりも嬉しそうに笑ってくれる。何も無くても、彼女はいつだって傍にいてくれる。先程までの自分が見失っていた何かは『彼女』だった。

「……ごめん、本当にごめん」

 華奢な体に腕を回す。こんなに小さく細い体で、自分を叱っていたのかと思うと正直情けないとさえ思えた。しかし、ここまでしてくれる相手がこの世の中にどれほどいるのだろう。結果が全てであるこの世界で、彼女だけは自分の『過程』を見てくれていたのに。両親の次に自分の願いを叶えてくれていると言っていた彼女の笑顔が好きだった。それは今も変わらない。彼女が笑ってくれるだけで、だらしのない自分がこの世で一番の幸せ者のように思えるのだ。

「俺さ、いっつもこうなんだ。勝手に追い詰められて、一人で気負って、それで最後は誰にも頼れなくて」

 私だけを幸せにしようとしないで。
 幸せになるなら、辰っちゃんと一緒じゃなきゃ嫌。幸せにするだとか、幸せにしてもらうとかじゃなくて。彼女は優しい声音で告げた。その声の何処にも怒りは感じられない。ただ、ひたむきで真っ直ぐに心に届く、そんな声音だった。彼女の声を、気持ちを胸いっぱいに吸い込んでから、もう一度だけ、ごめんと口にした。

「はは……、俺、初めて怒られたかも」

 何気なく口にしたつもりだった。すると、彼女は突然慌て出すと、今度は彼女の方から、ごめん!と飛んで来た。彼女は比較的笑顔でいることの多い相手だった。だから、余計に突き刺さる部分が多かったのかもしれない。ただ、そのおかげで悪い夢みたいなものからは、真の意味で覚めたような気がしている。いいよ、気にしてない。と早々にでも伝えたかったのだが、今の状態の心地良さが離れ難いと気付いた瞬間、また自分の中の弱い部分を出してしまおうと思った。
 ……もう少し、このままでいたい。と言えば、うん。と何も気付いていない彼女が健気に受け入れてくれる。とても有難いことなのだが、いつまでも彼女の胸に抱かれていると、どうにかなってしまいそうだから、あと少ししたらもう一度ちゃんと謝ろうと思う。気負い過ぎた焦燥感と彼女の優しさのツケを払わなければ。



| たとえば、もし、そうなら |


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