黒く流れていく川に、自分の感情を投げ捨てた。例えそうしたところで誰も気に留めはせず、誰も構いやしないのだ。今夜の行き先を考えあぐね、巌橋にひとり取り残されていた。いつもの仲間や親しい友人、感じのいい顔見知り。暇を潰すだけの連絡先は腐るほどある。しかし、本当に重きを置くような相手の連絡先は一つも知らなかった。臙脂色の背中をふと思い出しては涙の匂いがする。泣きたい気持ちよりも先に恨み言ばかり募るのだから、自分は可愛い女ではないのだろう。
 なれることなら、そうなりたかった。しかし、そうはなれなかった自分でも心を許せる相手だったのに。最後に会ったのは一ヶ月ほど前、音信は不通。薄情な男め、連絡のひとつも寄越しやしない。溜め息さえ川に溶けて流れていく。もう期待しない方がいいと言われたような気がした。これ以上、長居しても体を冷やすだけだと立ち去ろうとした時だった。自分の後ろには見知らぬ男達が佇んでいた。嫌な予感が肌を伝う。今日は最悪な一日だ。酷いセンチメンタルに一人放ったらかしにされて、遂には面倒そうな男達と出会す。一言断って男達から離れようとするも、相手はそれが気に食わないとこちらに手を伸ばして来た。

「なんや、おもしろそうなことしとるやないか!」

 どこか面白そうだと言うような笑い混じりの声が聞こえ、俺も混ぜろや。なぁ、ええやろ?そないケチケチせんと、なぁ?と狂気を帯びる声音に、またあの臙脂色の背中を思い出す。手を伸ばしかけた男達も話し相手がただの一般人ではないと知っていたのだろう。バツが悪そうに走り去るとその場には自分と、臙脂色の男だけが残されていた。

「危ないとこやったなァ、夜遊びは程々にせんとアカンで」

 臙脂色の男はこちらに手を伸ばすと、何事も無かったかのように頭を撫でる。まるで自分が今まで置き去りにしていた事実などなかったかのように。その馴れ馴れしい手つきに、馴れ馴れしい口調に、馴れ馴れしい距離感に、涙の匂いが一層強くなる。ぼろぼろと流れ落ちる涙をそのままに、男を睨み付けた。

「……そない泣かんでもええやろ。折角の可愛ええ顔が台無しやァ」

 今まで連絡寄越さなかったくせに、と震えた声で問いかければ、ヤクザにもイロイロあんねや。知っとるやろ。とはぐらかされ、……知らない。と突っぱねたところで男も困ったのか、その手で涙を拭い始めた。頬を擦る感触に虚勢や強がりがゆっくりと溶けていく。ぽつぽつと内心を明かせば、何言うとんねん、ホンマに。アホやなァ。と再び頭を撫でられた。子供じみた自分を上手くあしらう男に何か言ってやりたくて、女は直情的に口を開いた。すると、男は数秒間を置き、鼻で笑った後、ホンマにええ子やなァ。と満足気に呟くのだった。


***


「せや、さっきの返事やけど」

 さっきの?と見上げた先の男は、変に真面目な顔で巌橋から蒼天堀川を眺めていた。自分も同じように視線を戻す。一人で見た川は何の面白みもなく、自分だけが取り残されたようで残酷に感じていたのに、二人並んで川を見ていると不思議と穏やかな気持ちでいられた。そして、さっきの返事と言われてしまっては、自分が口走った言葉の軽率さを知る。飽きられたわけではないと思う。臙脂色の男と過ごす日々は楽しいに尽きる時間だったから。しかし、彼はどうだろうか。こんな小娘より興味の引かれる相手なんて星の数ほどいるのかもしれない。
 だから、ああ言ってしまったのだろう。離れて欲しくなかった。傍に居続けて欲しかった。生きた分だけ刻まれた皺のある顔で笑っていて欲しかった。また明日も会える約束が欲しかったのだ。上手く大人にはなれない気がする。ヤクザの男を繋ぎ止めようと必死になっているのだから。結局、とどのつまり、子供なのだ。今更、恥ずかしいから聞かなくてもいい。と突っぱねても、臙脂色のヤクザは聞く耳を持たず、髭を蓄えた口元で返事を出した。

「もう一度も何も、ハナから嫌いになってへんわ」

 ただ、ホンマに忙しかっただけや。ワシ、こう見えても怖〜いヤクザやからなァ。ともう何度も見慣れた下品な笑みを浮かべていた。それから気を良くしたのか、ヤクザは馴れ馴れしく手を取り、ぎゅっと握り締める。そして、鼻歌を一つ。手を繋いだだけでここまで機嫌が良くなるのは、きっとこの男だけだろう。内心、気恥ずかしさを覚えつつも、返事を聞いて良かったと思えた。まだ隣に居てもいいのだと、今までに破り捨てたたくさんの言の葉を看取ってやれた気がする。

「ほな、このまま遊びでも行こか」

 何処がええ、今日は何処でも連れてったろうやないか。と意気込むヤクザに思考を巡らせる。大して、特に行きたい所はなかった。だが、咄嗟に口を突いて出たのは、蒼天堀通りにある大きなゲームセンターだった。欲しいぬいぐるみの景品があると漏らせば、最初は渋い顔をしていたが、珍しく真顔で考え込んだ後、手を引いて歩き始める。
 何がええんや。文鳥のブンちゃん。ブンちゃんやとぉ?!……丸くて大きくて可愛いの。鬼仁会のヤクザ捕まえてゲーセン行こか、て、ヤクザ泣かせもええとこやで。じゃあ、他に行きたいとこあったの?

「そらァ、へへへ……」

 途端に締まりのない顔をさらけ出す。やだ、とさっさと釘を刺し、それ以上を聞かないように制する。すると、……つれへんなァ。と繋いだ手の内側をいかがわしく、軽めに引っ掻いた。くすぐったい感触に負けじと、こちらも強くその手を握り締めた。しかし、非力な女が懸命に手を握り締めたところで、男に勝てるはずもなく、気持ちええわァ、と軽くいなされてしまう。露骨に顔に出してしまおうと、ふとヤクザに視線を逃がした。逃がした先で、女は男がしみじみと自分を見ていることに気付く。
 そうだ、そうだった。これが、自分が失くしたと思っていた時間だった。音信不通になっても、誰にも心を、体を許さなかった揺るぎない理由だった。とても、寂しかった。まるで置いていかれたようで。薄情だと決め付けて恨むことしかしなかったのは、割り切れない寂しさを誤魔化す為だった。二度と会えないと錯覚するほどに、虚しさを埋めるのが苦痛だった。力いっぱいに握り締めた手を解く。突然のことに男は驚いているようだった。

「ええんか、手」

 子供っぽく思われたくないから、と返すと、思うてへん。と言う。そうじゃない、フロントの人に、と更に返せば、男は首を傾げた。状況が理解出来ていないようだった。気付いて欲しくないことには敏感なくせに、こうやって勝負に出るといつもそうだ。西谷さんの、行きたい場所に行ってあげるから、と羞恥もそこそこに伝えると、ようやく事が飲み込めたようで、……ホンマか?と訊ねられる。頷く、しっかりと目で見て分かるように。

「せやったら、ワシの好きにさしてもらうわ」

 今度は力強く強引に手を奪われた。そして、そのまま肩を抱かれ、蒼天堀のごった返す人混みを掻き分けていく。無口なまま、男に身を任せて歩いていると、また気付くことがあった。この道はホテル街に続く道ではない。この道は、最初に自分が行きたいと言った、ゲームセンターへと続く道だった。咄嗟に顔を上げようとしたが、変な緊張感から躊躇っている間に、先に男の声が降ってきた。

「お土産のひとつも持たせんと、男ちゃうわ」

 せやろ?と肩に置いた手にやんわりと力を込める男に、笑みが溢れる。どうして、この人はいつもこうなのだろう。あんまりにも狡いではないか、そうやって自分ばかりを大切にして。だが、それが西谷誉らしさであると知っているからこそ、つい、笑みが溢れたのだ。



| ”もう一度、好きになって” |


back