夏の翳りが斜めに差し込む。明かりをつけない代わりに雰囲気だけで選んだキャンドルが小さく燃えている。蝉時雨、夕陽に染まる地平線、フローリングに寝そべるだけの午後六時。肌寒い程に空調が効いている部屋で変わり映えのしない天井から目を逸らしても、あるのは翳りに沈む部屋だけ。金魚鉢の金魚、石畳に鳴る下駄の音、風に吹かれる風鈴。夏という季節は終わりを先延ばしにしてくれるくせに、拭いようのない寂しさを置いていく。今日が終われば、明日が来る。明日が終われば、また明日が来る。夏はあと何回ほどこの部屋を訪ねてくるのだろう。カレンダーにバツをつけるのはやめた。

「まーた死んだように横たわってるよ」

 袋が擦れる音と共にその足音はこの無人の部屋にやって来た。相手は夏ではなく、派手な柄のシャツを着たヤクザの男。袖は捲られており、ジャケットは小脇に抱えられていた。やけに寒くねぇか、この部屋。とそこら辺に投げられたリモコンで空調を切ったかと思えば、今度は勝手を知ったようなように窓を開け、外の空気を部屋に取り込んでいる。

「ったく、こんなとこにいるんじゃねぇ。腹、冷やすぞ」

 面倒そうに世話を焼くその姿を見るのは、これで何度目だろう。どうしていつもタイミング良く現れるのだろうか。誰にも甘えられず、隣に誰かを望む時、錦山彰はここを訪ねてくる。小脇に抱えたジャケットはベッドへ、手にぶら下げた袋はテーブルへ。更にその袋から一本のミネラルウォーターを取り出し、上向きの自分の額に押し当てる。額に伝わる鋭い冷たさに咄嗟として起き上がれば、隣で笑いを噛み殺すような声が聞こえてきた。

「シケた面してんじゃねぇよ。まだ海にも行ってねぇんだろ?夏はこれからだってのに」

 海に行く予定はない。涼みに行くつもりの図書館にだって通わない。夜に咲く花火を見る機会もない。あまりにも何も言わなかったせいか、相手は大きなため息と共に、あのなぁ。と口を開いた。

「どうせ、また厄介ごとでもあったんだろ?ったく、お前はどうして毎回こうなるんだよ」

 連絡のひとつでも寄越せっての。と額に鈍い痛みが走り、不機嫌に睨み返そうとした。そうしたかったが、錦山は自分より先に真面目な顔をしてこちらを見つめていた。その眼差しが痛いほど突き刺さって、世界が滲んでいく。本当は行く予定だった。可愛いと思って買った水着も、文学少女らしい大人しめな服装も、苦手な下駄も我慢しようと思って浴衣一式揃えていた。それを思うとやり切れない思いに満たされ、翳った夏に取り残されるしかなかった。

「俺のこと、なんだと思ってんだよ」

 ただのお人好しなんかじゃねぇんだぞ。とその眉間には皺が刻まれ、錦山の言葉の重みが徐々に増していく。頬の涙を拭い、同じように面と向かって見つめ返せば、やっとその厳しい表情は解かれ、今度は優しい手が頭上に降る。恐る恐る身を寄せれば、拒まれるどころか強く抱き寄せられ、思い切り泣いてもいいような気持ちに駆られた。


***


 心地よい心音にあやされていた。包まれる温もりに慰められていた。ふわり、と漂う香水の爽やかな香りに許されていた。部屋は既に薄暗く、夏の闇に染まっている。涙で滲んだフィルターで世界を覗けば、目の前には自分をひたすらに抱き締めてくれた錦山の姿があった。もういいのかよ、と不機嫌そうな顔で呟く。黙って頷けば、錦山は眉間に皺を寄せたまま、黙ってしまった。何か思うところがあるのか、真一文字に唇を結んでいる。

「なあ、ソイツのどこが良かったんだよ」

 薄暗がりに誰かの心が転がっていく。思いもしない言葉に返すべきものが見つからない。互いに黙り込めば、静寂さえも沈黙を選び、あとは無音の世界が広がっていく。錦山の言う、ソイツと言うのは今年の夏を共に過ごす筈だった相手のことだ。今となっては思い出すだけでも苦しい胸の内があるのだが、錦山の言い方に引っ掛かりを覚え、口を開く。
 言うなれば、錦山彰とその男の違いである。正反対の人間だった、ように思う。世間的な立ち位置や生まれ育った環境、そして、持っているものと持っていないもの。違いを見つければキリがないが、錦山はどこか納得の行かない顔でこちらを見た。

「どう見たって俺の方がマシじゃねぇか。……まあ、ヤクザもんだけどよ」

 うん、そうだね。うん、……うん。と与えられた温もりの中で悪夢を見る。あれは綺麗な思い出だった。けれど、気付けば道端に伏せる蝉のように粗末なものになっていた。中身もなく、カラッポのまま、砂埃に塗れて汚れてしまった。そして、いつか散り散りになって無かったことのようにされてしまう。確かにその時を生きていたのに。彼と、一緒に過ごしていたのに。もう鳴けない、見放されてしまった。眩しい夏に取り残された蝉は冬を越せない。部屋のキャンドルは一足先に燃え尽きていた。

「暫くは踏ん切りがつかねぇだろうが、呼んでくれりゃあすぐに来てやる」

 だから。……だから、今はひとりで居ようとすんな。錦山の声が静かな水面に小さく響く。誰が息絶えた抜け殻を手にしようと思うのか。誰が失恋した女の傍にいようと思うのか。昨日まで、ついさっきまで隣にいなかったような相手の、傍に。温もりの腕から離れ、誠意と向き合う。錦山も初めは驚いていたが、やがて素顔を覗かせる。酷く真面目な顔をして。何かあれば、自分はヤクザだからと一線を引いていた錦山が今は真面目な顔をしている。
 わたしの夏、終わっちゃったよ。と話かければ、まだ始まってもいねえだろ。と返され、でも、と続けるよりも先に、ぐっと距離が詰まっていた。額をぴったりとくっ付け、錦山は目を閉じていた。眉間には深い皺があり、自分も遅れて目を閉じる。瞼の裏の闇にひとりきりだった。しかし、錦山が消えたキャンドルに何度も火を灯そうとしていた。

「……大丈夫だ、俺がいてやるから」

 お前の行きたい所、何処にでも連れて行ってやる。着たい服だって着せてやる。何度だって寄り添ってやる。全部、俺が叶えてやる。
 自ずと目を開ければ、睫毛の隙間を埋めるように居座っていた涙が頬に流れる。涙の匂いに抗いたくて錦山を見た。すると、同じように睫毛の隙間にぬるいそれを溜めていた。流すまでとはいかないが、潤んだ瞳がやけに優しく、やけに嬉しくて、もう一つ頬に流していく。

 窓の外、夕暮れを過ぎた夜の街に、また新たな蝉の鳴き声が響き渡った気がした。夏の終わりを告げる音か、夏の始まりを告げる音か。分かりはしないが、昨日までの世界と違って何かが変わったのだと言っている気がした。



| 夏の日の小話 |


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