東城会荒川組組員である春日一番が出所したのは二〇一九年のことである。出所を迎え、神室町へ再び戻って来た時、春日一番は衝撃に襲われた。どことなく昔の名残がある街を闊歩するのは関西の極道組織、近江連合の組員達。時折、見舞われるトラブルを回避しながら、春日一番は自分の生まれ育った街である神室町を、すっかり古臭くなってしまった自分の地図と照らし合わせてみたくなった。

 街は夜。天下一通りにそびえ立つ赤い電飾の眩しいアーチを潜り、ひしめき合う建物と看板で埋め尽くされた通りを眺める。この街で全く変わらないものと言えば、自分が踏み締めているこの道だけなのだと、その事実が十八年間も服役していた男の虚しさに突き刺さる。日中、春日は自分に縁のある場所を回り続けていた。自分が生まれ育った桃源郷というソープは今や見るも無残な廃墟と化し、自分が身を置いていた荒川組の事務所も今では空きテナントになっており、チャンピオン街の飲み屋、中道通りの煙草屋、何処へ行っても知らないもので塗り替えられ、ただ十八年間のブランクを持った自分だけが今の時代に、この街に爪弾きにされているような気分だった。
 今更行く宛など無かったが、足立との約束の時間まで上手く時間調整をしなければならず、他人のような顔をした街を彷徨くことしか出来ない。かつての故郷は空白の間に失われてしまった。その面影が残る街を歩くのは、自身の虚しさに拍車をかける行為だと分かっていながら、春日はまず天下一通りを行った。日中、駆けずり回ったおかげで分かっていることがある。この先にコンビニが一件あり、そこで少しでも時間を潰せないかと考えた。

 こちらへと押し寄せてくる人の波を躱して行けば、街の歩きづらさに疲労する。誰も皆、手に小さな機器を有しており、前を見ようとしない。自分だけが気を使わなければならない状態にうんざりしつつも、仕方ねぇなと内心諦めながら、目的地であるコンビニへと向かう。すると、その途中で春日は誰よりも視線を高く構えた、とある人物に目を奪われた。
 ワインレッドのジャケットに、黒のシャツと黒のスラックス姿の男が一人、通りの隅で正面の雑居ビルを見上げている。そして溜息を吐いては、懐かしむような表情で佇んでいた。春日は足を止めるでもなく、その男と同じように何となく近くの雑居ビルを見上げた。そこには飲み屋や他の店以外にたった一つだけ何も入っていない階がある。馴染みの店があったのだろうか。知りもしない他人の事情に踏み入ってしまったようで、同じように寂しさを覚えた。

「ねぇ、そこのお兄さん。そこの赤いスーツの、」

 突然、声を掛けられ、思わず反応してしまった。春日を呼ぶ声の先には、つい先程まで目を奪われていたあの男がいた。呼び止められた手前、無視することは出来ず、まだ慣れない人混みを避け、男の元へと近付いていく。

「お兄さんもあの場所を見てたみたいですけど、もしかして、」
「ああ、いや……。悪ぃ、アンタがすげぇ寂しそうに見上げてたもんだからよ、つられて俺も見ちまってたんだ」
「……そうですか。すいません、突然呼び止めてしまって」
「いや、気にすんな。アンタは常連だったのか?多分、あそこにゃあ店か何かがあったんだろ?」
「ええ、ありましたよ。でも、小さな所で、従業員含めても二人しか居ないような」
「おいおい、たった二人しか居なくて店は繁盛してたのかよ?どう見ても神室町でその人数は無理があるんじゃねぇか?」
「でも、そこは上手くやって行けてたんです。たまに危ない時もありましたが、つい最近までは何とか」

 懐かしむ瞳が次第に寂しさを帯びる。街のざわめきが薄情に二人だけを取り残し、過去をなぞる二人の前を通り過ぎて行った。

「……あ、すいませんね。こんな話、見ず知らずのお兄さんにするような話じゃないのに、」
「いや、俺のことは気にすんな。アンタがどんだけその店に愛着があったのか分かったよ。いい話聞かせてもらったぜ」
「ハハ、お兄さんみたいな人、久しぶりに見ましたよ」

 そうか?そんな珍しいか?ええ、今じゃそんな人、滅多に居ませんから。マジかよ……。ええ、マジです。寂しげな男の見せた笑みに春日も自然と打ち解けていた。不思議な気分だった。初めて会ったような気がしない。実は以前どこかで一度会っているかのような既視感がこの男にはある。

「俺の知り合いにも居たんです。お兄さんみたいな人が」
「でも、さっき久しぶりっつってたよな。ソイツとは最近会ってねぇのか?」
「まあ、会ってないって言うか、会えなくなっちゃって。その人、もうこの街に居ないんです。ちょっと前に居なくなっちゃいましてね、」
「そうか。でも、生きてりゃあ、またいつか会えるもんだぜ、そういうのはよ」

 そうかもしれませんね、俺もそんな気してるんです。またいつかその人には会えるんじゃないかって。そう口にした男は満足したのか、それじゃ、俺はこれで。と言い残し、人混みに紛れて消えた。名前ぐらい聞いておくんだったなぁ、と後悔したが、それよりも自分が少し満たされたと思うのは、自分自身も久しぶりに心を許して話が出来たからだろうか。隣人を失った春日は再び黒い波に身を投じていた。もう適当に時間を潰そうとは思えず、もう一度春日は街を練り歩くことにした。


 天下一通りを抜けて次に向かったのは、多くの飲食店が混在する中道通りだ。飲食店の前を通る度に食欲を刺激する良い香りに襲われる。しかし、今はそのままつられて食事をするほど空腹でもない。春日が一人身軽で、対照的に通りのごった返す景観の中で、ふと目に止まった建物があった。それは今更珍しくもないただのゲームセンターだ。外装の色が赤だから一際目立って見えたのだろう。春日は今はどんなゲームが流行りかねぇ、と呟きながら、クラブセガの自動ドアを潜った。
 ジャラジャラと硬貨の擦れる音が耳にうるさく響く。あとは様々な機体から発せられるBGMや効果音などが店内をより騒々しく盛り上げる。UFOキャッチャーやプリクラ、アーケードの格闘ゲームと十八年という空白の期間を経た春日にとって、それらは真新しい最新ゲーム機のように見えた。早速遊んでみるかと手持ちの千円札を両替機に突っ込み、吐き出された硬貨十枚を手に、まずは両替機近くにあるアーケードゲーム着に備え付けてある椅子に腰を下ろした。

「さぁて、今の格闘ゲームってのがどんなもんか、遊ばしてもらうぜ」

 春日が手持ちの硬貨を数枚流し込んだ所で、ゲームが起動する。画面いっぱいに映し出されたタイトル画面に心が躍る。戦闘導入部であるキャラクターセレクト画面には、性別、種族を問わずに数々のキャラクターが並んでいた。その中から主人公でいて且つ王道的なキャラクターデザインの彼を選択すると、早速第一ラウンドが始まる。春日は慣れない手つきながらもボタンやスティック操作で奮闘する。
 しかし、一度も遊んだことのない機体での戦闘と言うのは慣れるまでが長かった。コンピューター相手とは言え、程よくコンボ数を稼がれ、打ち込まれてはあっという間に体力は減り、そのまま華麗なコンボを最後にKOに持ち込まれた。第二ラウンドが続けて始まったものの、少し慣れた程度の操作では相手の体力を減らし切ることは叶わず、第二ラウンドが終了した後にはGAME OVERの表示が浮かび、何度もチカチカと点滅していた。

「だぁ〜〜〜〜〜〜!ったく、やっぱゲームはドラクエに限るぜ……」
「お兄さんスゴいね」
「ああ?」

 突然、後方から聞こえて来た声に振り返れば、ゲームセンター入口に声の主と思われる青年が気だるそうに佇み、こちらの画面を覗き込んでいた。

「何がすげぇってんだよ、こちとら惨敗してんだぞ」
「だから、コンピューター相手に一勝もしてないのがすげーんじゃん」
「なんだよ、嫌味かよ!」
「お兄さん、いかにもってカッコしてんのにさ、ゲーム弱いって。面白いね、お兄さん」
「まあ、初めてやったしな。やっぱ下手か」

 格ゲー初心者なワケ?と隣の空いている椅子に座ると、もっかいやってみてよ。と催促され、負けっぱなしも気分じゃねぇとコンティニューのカウントがゼロになる前に硬貨を投入した。見ず知らずの青年は黒目がちで口元にはピアスが見受けられた。所々ほつれたセーターにやたらと大きな王冠をぶら下げたネックレスと特徴的な恰好に再び既視感を覚える。妙な感覚に襲われながらも、もう一度同じキャラクターを選択し、バトルへ突入する。カチカチ、ガチャガチャ、とボタンとスティックレバーが鳴る。立てる音の大きさの割にはまずまずと言った戦いぶりで、青年はヘラヘラと笑ってそれを観戦していた。

「お兄さんさぁ、やっぱ弱いでしょ。あとデタラメにボタン押してたって勝てないよ〜?」
「んなこた、分かってんだけどよ……!どうも、このボタンとレバー操作ってのが性にあわねぇ」
「んじゃ、一回戦目負けたら俺と交換してよ」
「負ける前提かよ!って、うおっ!?やべぇ……!」
「ほらほら、頑張んないと押し負けちゃうよ〜」

 青年のやる気のない声援を聞きながら、春日の健闘は続いた。初戦に比べれば慣れがバトルを有利にしてくれていたが、後半の畳み掛けるようなコンボを切ることが出来ず、前半の勢いのまま押し切ろうとすれば、カウンター技や足元への攻撃を避けられないまま、形勢逆転を許してしまった。第一ラウンド敗北。今回は特に悔しい、前半かなり押していたのにまさか押し返されるとは。項垂れるよりも先に、はい、こうか〜ん。と独特なテンションな青年と交代し、お互いに入れ替わる形で再び椅子に腰掛けた。

「お前、そんなに強いのか?」
「まあね〜。結構、最強って感じ、」
「遊び慣れてるっつうことか。じゃあ、お手並み拝見とさせてもらうぜ」
「俺の見学料、安くないけど」

 おいおい、俺あんま手持ちねぇんだよ。え〜?お兄さん、そんなカッコーしてんのに金もないの〜?おうよ、だから俺の百円ムダにすんなよな。俺、こう見えて負けんの嫌いだからさ。だろうな。あ、分かる感じ?まあな、しっかし何でだろうな。とゲームセンターで妙な出会いをした二人の会話は弾んでいく。
 そこから話は格闘ゲームに戻る。青年の手捌きは春日のものとは違い、明らかに慣れているものだった。コンピューターの動きを見極めてボタンやレバーを入力していく青年の手元。綺麗に技を打ち込み、コンボ数を稼いでいるゲーム画面。自分の体力を全く削らせず、面白いほどに相手の体力ゲージが減る様に感心しながら、目は釘付けになっていた。手数が多いだけじゃなく、相手の攻撃を的確に躱し、そこから生じた隙にまた攻撃を叩き込む。ほぉ、と声が漏れるほどに青年の一戦は華麗なものだった。最後は必殺技で体力を削り切った青年は余裕そうな顔で春日を見る。

「どう?」
「お前、すげぇな……!」
「ま、これが熟練者の手捌きってヤツ?」

 でも、コンピューター相手じゃ面白くないんだよね。とその一戦を済ませた青年はふらりと席を立つ。春日はその背中を呼び止めると、今度は俺と戦ってくれよ。と一方的な約束を投げ掛けた。青年は、え〜。お兄さんと?とあまり乗り気ではない。俺ぁ、春日ってんだ、と強引にも名を告げれば、春日サンね。と青年は軽く頷き、じゃあ修行頑張ってね〜。と我先にクラブセガを後にした。一人取り残された春日はゲーム画面を見て焦ることになる。アーケードの格闘ゲームというのは互いに一勝している場合、次のラウンドで決着をつけるのだ。勝てる気がしないまま、春日は青年の後を継ぎ、もう一戦だけコンピューターに付き合うことになった。


***


 青年がクラブセガを後にしてから数分後、同様に自動ドアから出て行く春日はまたあの充実感を感じていた。もう自分に縁のあるものなど無いと思っていたのに、何故か行く先々でそれに似たようなものと出会ってばかりだ。もしかしたらまだ他の場所にもあるのだろうか、初めから切れていた糸を結び直すような出会いが。
 懐かしい演歌を鼻歌に中道通りを入口方面に進めば、一つだけ見慣れぬ建物があることに気付く。そこは昔、大きなディスカウントストアがあった場所だ。歩きずらい人混みの中を軽く駆け出し、その建物の正面で足を止めれば、そこには警察署と思われる佇まいの建物が辺りの景色に溶け込んでいた。こんなところに警察署なんかあったか……?と目を凝らしていると、丁度署内から出て来た男に声を掛けられた。きっちりとスーツを着こなした几帳面そうな眼鏡の男だ。

「君、そこで何をしている」
「え、あ、俺か?いや、俺はただ、」
「あまり見かけない顔だが。失礼、何か身分を証明するものを見せてくれないか」
「い、いや、俺、最近出てきたばっかで」
「そうか。だとしたら、ここに来るのも久しぶりだろう。言っておくが、ここはもう以前のような街じゃない、トラブルにはくれぐれも注意してくれ」

 スクエアフレームの眼鏡の奥にある、どこか頑固そうな黒い瞳に捉えられ、春日は根拠の無い懐かしさを感じていた。今までにあった二人にも感じたことだが、この刑事らしい男も含め、他人のような気がしない。自分自身のはっきりしない感情に春日は戸惑いながらもこう訊ねた。

「なぁ、アンタ。俺たち前にもどこかで会ったような気がしねぇか……?」
「俺と君が、か?……記憶にはないが、」
「ああ、いや、悪ぃな、刑事さん。妙なこと言っちまってよ」
「いや、構わない。しかし君の言う通り、俺も初めて会ったような気がしない」
「俺も今日はやたらとそういうヤツに会ってんだ。気のせい、なのかもしれねぇけどよ、」

 そういうこともあるかもしれないな。と眉間の皺を浅くした男につられて春日も口元に笑みを浮かべていた。別れの雰囲気は僅か数秒後に訪れる。先に歩き出したのは春日の方で、男の隣をすり抜けていくと再び男に呼び止められる。

「君、念の為に聞いておくが、名前は?」
「春日一番だ。アンタは?」
「俺は神室署の北村だ、」

 聞き慣れた言葉を聞かされている気分だった。やはりこの男も同様だった。一度頷き、ようやく二人はそこで別れた。見知らぬ人混みに紛れて街を練り歩く。ここは本当に神室町なのだろうか。自分が生まれ育ち、生かされてきた街なのだろうか。空白の時間は記憶さえもうやむやにしてしまったのか。それにしては何故、初対面だと言うのに心を許せるような相手と出会う?ここは本当に自分の知っている神室町、なのだろうか。いつの間にか湿っぽくなってしまった気分に手を引かれ、人混みと共に街角を流れていく。元々行く宛などないのに、どこかに行きたいと思うのは滑稽だろうか。

 センチメンタルという言葉が何となしに頭に浮かんだ頃、春日の足はとある建物の前で止まった。あまり考えずに歩いていたつもりだったのだが、こればかりはどうしようも無い。変わり果てた実家の姿は夜闇に紛れ、日中の時に比べて少しだけマシに見えた。きっとこの場所で足を止めて感傷に浸るのは自分だけなのだろう。
 懐にしまいっぱなしの持ち慣れないスマホを取り出し、適当に側面にあるボタンを押し込めば、シンプルな待受画面が表示される。画面の上部にある時計はまだ約束の時間には早いと告げているような気がして、傷心中にはやっぱ酒の一杯でも引っかけねぇといけねぇよな。と小さく笑みを零し、人気の多いチャンピオン街の通りを見た。酒に溺れてしまおうという訳じゃない。ただの慰めだ、自分一人しか知らない切なさを慰めてやりたいと思っただけだ。その一心でチャンピオン街へ足を踏み入れると、突然背中に衝撃が走る。

「うお……!?」

 衝撃の後に聞こえて来たのは女性の声だった。その相手の無事を確かめようと振り返ると、足元に細々とした物が散らばっているのが見えた。缶詰などの食料品とそれらが入っていたであろう袋を手に、近くで尻もちを着いている女性が一人。

「おい、大丈夫か?」
「ああ、ごめんなさい。ちゃんと前見てなくて、」
「いや、気にすんな。怪我はねぇか、お嬢ちゃん」

 手を差し出す。白いインナーシャツの上にダウンベストを来た彼女はその手を取り、引っ張られる形でその場に立ち上がる。

「……っと、悪ぃな。荷物、散らかしちまって」
「あ、大丈夫ですから、」
「いや、俺にも手伝わせてくれ。俺とぶつからなきゃお嬢ちゃんは転ぶことも、荷物が散らばることもなかったんだ」
「……それじゃあ、お願いします。私は向こうのものを取ってきます」
「おう、分かった」

 立ち上がった彼女とは反対に今度は春日が身を屈め、路上に散らばった荷物の一つ一つを手に取り、置き去りのビニール袋に戻していく。そして女性も同様に、遠くに転がって行った荷物を拾い上げてはその腕に抱え込む。次第に中身の減った袋は大きさを取り戻し、春日もぶつかってしまった彼女も辺りに拾い忘れた荷物がないことを確認する。

「これで全部か?」
「ええ、ありがとうございます。助かりました」
「にしても量があったな。お嬢ちゃんは買い出しか何かか?」
「まあ、そんな所です。私のお婆ちゃんがお店やってて。その手伝いで買い出しに」
「ほぉ、店の手伝いとは偉いもんだな」
「店って言ってもちっちゃい所なんですよ。それでも来てくれるお客さんとかいるから」

 お婆ちゃんと私の二人しかいないから大変なんですけどね。と困ったような顔をしているのに嬉しそうに零す彼女に、春日は過去の面影を見た。この街は何もかもが変わってしまったと思っていたが、まだ街のどこかには昔のように慣れ親しんだ雰囲気や時間が流れている場所があるのだと知る。その事実がはぐれ者だった自分の心の隙間を少しだけ埋めてくれたように思えた。

「なあ、お嬢ちゃんが手伝ってる店ってのはなんて名前なんだ?」
「うちの、ですか?泥棒猫って言う小さなスナックです」

 ちょっと変わった名前ですよね。と微笑む彼女に今までの違和感は確信に変わる。何度も抱かされた妙な感情、面識のない相手に抱く懐かしさ、偶然とは思えない出会いの連続。自分はこの街の生まれで、神室町は自分の故郷である。たった今、その事実に一点の曇りはなく。

「じゃあ、今度顔出させてもらうよ。チャンピオン街の泥棒猫っつうスナックだな」
「……なんだろう、なんか変な感じ、」
「なんだよ、人の顔まじまじと見て変な感じって」
「私、この時を待っていたような気がしてる。なんでだろう、お兄さんとは初めて会ったのに」
「な、ホント訳わかんねぇよな。俺もそんなことばっかだ、」

 んじゃ、俺行くわ。この後、用があんだ。と彼女の前から立ち去ろうとすると、待って。という言葉に足止めされてしまった。振り返れば、彼女はまだその場に残っており、こちらに何かを放り投げる。手のひらに上手く納まった何かを見れば、それは泥棒猫と印字された小さなマッチ箱だった。うちの店、絶対に来てね。私、お兄さんの話聞きたいから。と口にする彼女は笑顔だ。あんがとな。婆ちゃんと仲良くやれよ。と手にしたマッチ箱を軽く揺らすと、来たばかりの道を戻って行った。


 故郷とは一般的に自身が生まれ育った場所のことを指す言葉だ。つまり春日一番にとって神室町が正にそれである。けれど、出所してすぐの春日は長い年月を経て変わってしまったこの街を故郷と呼べずにいた。面影がなく、心の拠り所としていた場所もない。あまりにも他人面をしているこの街をそう呼んでしまうのには抵抗があった。
 だが、今日出会った人間達と言葉を交わしてやっと理解した。神室町は自分の故郷であると。きっとあの四人と出会ったのは偶然じゃない、たった一目でも出会わなければならなかった相手なのだ。自分はあの四人のことを知っていて、自分にはあの四人と共に過ごしていた時間がある。だが今の自分にはそれが与えられなかっただけなのだと。そう考えれば、あの四人と馬鹿をやれたら面白そうだという企みすら湧いて出る。しかし、違う。自分が歩むべき道に彼らの姿はない。

「結局、誰も迎えには来てくれねぇっつうことかよ。寂しいねぇ……」

 赤いスーツは人の波を掻き分けていく。行先はたった一つ。足立と約束をしたあの場所だ。そこで合流し、共に平安樓に乗り込んで荒川真澄から直接話を聞く。良く言えば、この街の国王は平安樓で主人公を待っている。魔王を討つ勇者の登場を。

「ま、でも、勇者も最初は一人だ。みんな弱っちい剣と鎧から始めるんだ」

 この日、平安樓で行われていた近江連合の幹部会に乗り込んだ春日一番は荒川真澄によって射殺される。しかし、奇跡的に一命を取り留めた春日一番は横浜・伊勢佐木異人町を起点とし、自身の新しい物語を紡いでいくことになる。



| 物語は続いていく |


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