最近、疲れることが多くなった気がして、同様に疲れているだろう彼の背中に引っ付いた。大きくて暖かな背中だ、常日頃から責任や正義を背負っている強い背中だ。頬を寄せ、耳で心臓の音を真後ろから聞く。どくん、どくん、と一定のリズムであるそれに穏やかさと安心感を抱いたところで、彼の腹部に巻き付けた手に何かが触れる。これもまた自分のより大きくて暖かなものだ、ぎゅっと握り締める感触からそれが彼の手だと気付くと、不思議と嬉しくなった。
「どうしたんだ、これじゃあ身動きが取れないだろう。少し離れてくれ」
嫌だ嫌だと回した手に力を込めると、彼に我儘な理由の一部が伝わったようで、……わかった、あと少しだけだぞ。と、もう少しを許される。あと僅かしか許されないのなら、そのままでは居られず、咄嗟に体勢を変えた。今度は彼を後ろから抱き締める形になり、体の凹凸を忘れてぴったりとくっ付く。すると、お、おい……、と困惑する彼の声が聞こえ、広い背中の一部に頬ずりをした。彼は困惑のため息を一つ浮かべてから自分に巻き付いた腕を解くと、向かい合うようにして、今度は彼から触れてきた。前髪の隙間を縫って、額に彼の手が置かれる。
「熱は……ないようだが、本当に今日はどうした。具合でも悪いのか?」
眉間の皺が浅く、眼鏡の奥の瞳に心配が滲む。額にあるその手を攫い、ごく自然な動作で接近してから触れた。離れた瞬間に吐息が千切れる。ごめんなさい、を瞬きに忍ばせ、ゆっくり離れていく。
「……ったく、こういうのは女性からするもんじゃないだろう……!」
珍しく取り乱す様を見つめながら、一人満たされた胸に、もう大丈夫だと白状すれば、勝手に自己完結させるな、と怒られてしまった。
それからは彼もあまり構ってくれなくなった。自業自得なのだが、これではあまりにも寂しい。ぴったりとくっ付いてみても反応はない。ああ、これは完全にやってしまったという状況ではないか。本当は色々と言ってやりたい。親しい関係の人間よりそんなに読書が大切なのかと。さっきのはちょっとしたスキンシップなのだと。もっとこっちを向いてくれてもいいんじゃないかと。
彼のしょっぱい反応と萎れてきた気分に何もする気になれず、彼に背を向ける形で床に寝そべる。拗ねた自分がひたすらに、なんだよなんだよ、と口ごもっていてつまらない感情のまま、目を閉じた。
***
その感触に目が覚めたのだと思う。戻ってきたばかりの意識はぼんやりと滲んでおり、薄く開かれた瞼は何度も小刻みに瞬きを繰り返す。頭に触れる大きな手の感触が気持ちいい。まるで頭を愛撫される飼い猫のように、与えられるその心地良さに目を細めながら甘えていると、次第にゆるりと頭が回転し始める。その回転のきっかけはたった今聞こえてきた、耳触りのいい一言だった。
「こうして大人しくしていると、まあ、なんだ」
可愛らしい、とは思うんだがな。
意外な一言に完全に覚醒する。自然と見開いていた瞳は動揺に瞬きを繰り返し、狼狽えた唇に軽く歯を立てた。普段、滅多にこんなことを口にしない彼の、ついうっかり漏らしてしまった独り言がこれ程までに刺さるとは思ってもいなかった。不意打ちでキスをした時のあの慌てふためく姿が真新しい彼の困惑し、頬に赤みが残っている顔を思い出す。なぜだか無性にこちらが恥ずかしい気持ちになり、瞼をきつく閉ざした。
「起きているのか」
自分とは正反対に落ち着いた声が頭上に降り、返す言葉を選んでいると、再び大きな手に頭を撫でられた。
「あまりにも静かだったからな、後ろを見てみたら拗ねて眠っている姿があって、つい笑ってしまった」
今と同じように身を丸めて眠っている後ろ姿に、相手をしてやりたいと思った。これはおかしなことだろうか。と真面目な声で言うものだから、急いで体を起こしてあの手から逃げ出す。乱れた髪も、乱れた服も直さずに彼を見た時、言いたかった言葉を忘れてしまった。
「こっちに来るか?」
自分が座っている隣を軽く叩き、どうするのかをこちらに問いかけている。飲み込んだ文句は全て胃袋の彼方に収まってしまい、今度は拗ねたままの感情が踏ん切りつかないでいる。
「今なら相手になれるんだが、どうする」
まるで目の前にぶら下げられた餌のように、魅惑的な一言に飛びつかざるを得なかった。何の話をしよう、どんなものを見よう、次は何を口にしよう、何を飲もう。そのやりたいことの全てが許される一言なのだ。きっと今の自分は目を輝かせて、ぶんぶんとしっぽを振っているように見えることだろう。すると、俺の知り合いによく似ているよ。と嬉しそうな、困ったようなため息をついた。その言葉を聞くよりも先にあの隣へと向かっていたせいか、正確に聞き取れてはいないが、今は伏せておくことにする。
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