毎夜毎夜切り取られ続ける神室町の夜景が、今夜は雨に遮られてしまい、綺麗に見えなかった。
朧気に滲んだガラスの風景画の前には、唯一静寂を友として迎えている人物がいた。
何を考えているのか、それはいつも分からない。
悪い意味では無い、けれど、あまりにも彼の表情を読み取るのは困難で、顔色でさえも伺う事が出来ない。
もしかしたら、彼には感情が無いのかもしれないと、自分でもおかしな事を考える頭をなるべく無にした所で、なまえはようやくその人物に声を掛けた。
「お疲れ様です、社長。」
ガラスを一枚隔てた向こうの雨音に掻き消されないように、なまえは声量を上げていた。
社長と呼ばれた人物、立華は間を置いてから、同じ言葉を淡々と返す。
お疲れ様です。とその薄い唇から放たれた言葉をなまえはその耳に受け止め、次を言い掛けた。
言い掛けた直前、妙な違和感を感じた。
根拠は無いのだが、たった今動き出したかのように心が胸元を切なく染め上げる感覚が、その違和感を強く取り上げる。
確かに今夜は雨で無数の照明に彩られた夜景は見えない。
彼が何を思っているのか分からない事も、最低限の物音以外何も聞こえてこないこの静寂も、なまえがいつも仕事を上がる前に社長室を訪れ、挨拶を済ませるのも、いつもと同じ筈だ。
それなのに、些細な違和感は消える気配を見せずに、なまえの胸の内に引っ掛かり続けている。
言葉を飲み込んだなまえに何か思ったのだろう、立華はどうかしましたか。と続けた。
「いえ、すみません。何でもありません。」
「そうですか。では、お気を付けて。」
「はい、ありがとうございます。」
正体の分からない違和感の尻尾が見えた気がした。
今日の立華はどこかいつもと違う、それは立華との会話の中に潜り込んでいた。
次の言葉を切り出す時、少しだけ間が開く。
気のせい、と言う可能性が高い、でも、なまえはその場から立ち去る事が出来ずにいた。
「どうして、みょうじさんはそんな所で立ち止まっているんでしょうか。」
「気になる事が出来まして…。社長、一つお聞きしても良いですか。」
「どうぞ。」
「あの、大丈夫ですか…?」
立華の表情の変化は微々たるものだった。
多分、少しだけ目を見開いた様だった、自信は無い。
なまえはただの胸騒ぎを気のせいで終わらせてしまいたかった。
何だったら、立華に軽くあしらわれても良い。
不安を不安のまま、置き去りにしてこの社長室を出たくなかったのだ。
「みょうじさんには今の私がどう見えていますか。」
「分かりません。でも、何でもないならそれで良いんです。」
「みょうじさん。」
すみません、ただの勘違いですね。と苦笑いを浮かべる。
疲れた顔で申し訳ないが、なまえは立華の無表情に近い顔を見た。
しかし、そこに予想していた姿は無かった。
伏し目がちの瞳、瞬きに揺れる睫毛、悩ましいと眉間に皺を寄せる姿をなまえは初めて目にした。
貼り付けたばかりの苦笑いがあっさりと剥がれてしまった。
彼を困らせてしまっただろうか、それとも素っ頓狂な質問を投げ掛けた自分に呆れているのだろうか。
立華は一息吐いた、溜息を吐いたように見える仕草は騒がしい雨音に飲まれた。
雨音と静寂の中で立華の声が凛と通った。
「みょうじさん、こちらへ。お時間は…構いませんね?」
返事を問うような口調で有無を言わせない。
立華のこちらを射抜くような眼差しから逃れられる筈もなく、なまえは言われた通りに自らその距離を縮めて行った。
あともう少しと言ったところで、立華はその席を立ち、黒い革手袋の右手で革張りのソファーを指した。
座って話しましょう。と誘導され、なまえは立華の後を追うように歩いていく。
静かに腰を下ろしたのを確認する、どうぞ。と投げられ、失礼します。となまえもそこに着座した。
ソファーのふっくらとした感触が臀部を包む。
立華の隣に着座したなまえは緊張から体を硬直させていた。
「みょうじさん、」
名を呼ばれ、首輪を引かれた犬のように立華を見る。
射抜く視線で捉えられ、視線を逸らせなくなる、許されない気がして。
そんな心境など知らぬと言うように、立華は革を纏った右手の袖を摘むと、ご存知ですか?と話を続けた。
彼が聞いているのは、右腕の義手についてだろう。
咄嗟に声を出せなかったなまえは一度頷く。
それを見届けた立華は柔和な笑みを作り、たった一言、痛いんです。と発した。
「何処でどう気付いたのかは分かりませんが、みょうじさんはよく私を見てくれているようですね。」
「あ、いや、その…、わたし、」
「もしや、心当たりがあるのでしょうか。」
心臓に悪い事ばかり口にする立華に、なまえは内心、混乱し続けていた。
正直、同じ職場で働いていても、立華の事で分かる事などほぼ無いに等しい。
謎の多い彼に対して、どう言った言葉を、どう言った口調で、どう対処すれば良いのか分からなかった。
次を繋げられないなまえをじっと見つめては、立華は口元に笑みを置き去りにしている。
「今夜は酷く痛むんです。薬を飲んでも意味が無い程に。」
「社長、」
「顔には出ていない筈なのですが、みょうじさんの観察眼を甘く見てはいけないようだ。」
「きっと、偶然です…。私が社長の変化に気付けたのは、」
「ええ、そうでしょうね。それでもあなたは疑問に思い、質問を投げ掛けた。」
私に興味を抱いているのか、と問いたいくらいです。と薄い唇が鋭い言葉ばかり吐き出す。
それは全てなまえの心の柔らかな場所に刺さり続けている。
痛い、けれど、立華の痛みを超えることは無い。
彼の想像を絶する痛みを理解することは出来ない。
立華への好意がその酷く鋭い言葉に傷付けられていた。
何も出来ない、当の本人で無いなまえには何も出来ないのだ。
「社長、すみません。私が社長の痛みを見つけられた所で、それを代わる事が出来ません。私には…、」
「代わる?私はみょうじさんにそんな事は求めていない。」
「…すみません、余計な事を、」
「きっとみょうじさんでは耐えられないでしょう。それにこんなもの差し上げられない。」
義手の手首に指を這わせて撫でていた。
何を思っているのだろう、伏せた瞳は右手を見下ろしている。
「私はこれで良いと思っています。」
黒の瞳がなまえの視線を引き寄せ、なまえは息を呑む。
「不思議ですね、あなたと話をしていると痛みが和らいでいる気がします。」
「あの、社長、それは…、」
「それは、とは何でしょう?」
「…いいえ、」
「私はあなたの飲み込んだ言葉を、聞いてみたいと思っているのですが、」
駄目でしょうか、と黒が揺れる。
不鮮明な光の粒が立華の背後でぼやけていた。
いつの間にか忘れていた雨音が静寂を遮り、立華となまえの間を繋ぐ。
震える唇の隙間から躊躇いがちに声を逃がした。
「…私の考える事なんて、単純です。だから、社長がそう仰るなら、私は、…勘違いをします。」
「勘違い、ですか。」
「自分に都合の良い、勝手な勘違いです…。」
ほう、と依然として視線をこちらに向けている立華は、なまえに顔を近付けると、その勘違いとやらを是非、あなたの口から聞いてみたいものですね。と囁いた。
なまえは慌てながら、駄目です…!と言い放った。
大きい声量にも驚かず、その表情はやはり変わらない。
けれど、正反対になまえは顔が熱くなるのを嫌という程に感じていた。
本当なら今すぐにでも距離を置き、ヒートアップさせられた頭も顔も冷ましてしまいたい。
自然と体が背もたれへと逃げていく、立華はまだ一心にこちらを見つめている。
遂に逃げ場を失った背中は背もたれに行き着き、取り乱す女と、その様子を見て微笑む男。
「もう逃げられませんね。」
「…しゃ、社長、」
「では、話を変えます。みょうじさん、この後のご予定は如何ですか。」
更に、もし、と立華は続ける。
「みょうじさん。あなたさえ良ければ、この後の時間を頂けませんか?」
なまえは目の前に差し出された、罠のように暖かな笑みに頭を縦に振るのであった。
立華が目を細め、白い歯を覗かせて笑っているのを、ただ見つめながら。
20180728 痛みを見つける瞬間