零れたミルクのように広がる雲の切れ目からこちらを覗く橙の陽射し。
陽も傾いており、辺りはもう夜が始まる一歩手前。
あの雲が覆う空もゆっくりと夜の青に染められているようで、微かに星の煌めきが見える、もうすぐ夜が訪れるのだ。
それがどうしても勿体なく感じて、溜息をつくまでとは行かないが気分が落ち込んでいく。
未だ手付かずの部屋の明かりが寂しそうに待っている。
随分とこの部屋も薄暗さに飲まれてきた、でもまだ、もう少しだけ、と狭いベランダ前のガラス越しにそれを見ていた。
今日はとてもいい日だった。
仕事も休みが取れ、朝から好き勝手し放題だった。
朝寝坊、朝食を兼ねたお昼ご飯、夜もきちんと眠れるようにと少しのお昼寝、そして暖かな陽射しの日光浴。
読みたかった雑誌も読んだ、半分だけ、途中で飽きてテーブルの上に寝そべったまま。
与えられた休日という、自由な時間を贅沢に消耗したのだ。
けれど、余り有る自由は悪戯に時計の針を加速させ、一日の半分を終わらせてしまった。
夜と夕方、その曖昧な境目に寂しい感情が湧き上がる。
明日からまたいつもの生活に戻るからだろうか、それとも、もっと有意義に時間を使うべきだった、と思ったりするからだろうか。
ずっと昔にも同じ景色を見た事がある。
いつだったかは覚えていないが、夜を迎える準備をしたあの曖昧な空模様を。
漠然とした切ない風景、悲しい理由も、何がそう思わせるのかも分からないまま、ただ時間の許す限り眺めていた。
懐かしい、悲しくは無いけれど、切ない。
それは寒色、思い出とも呼べない記憶に耽っていると、また一段と暗くなった部屋から声が聞こえてきた。
なまえ以外、今日は誰も家に上げていない。
しかし、その声の主が何故この部屋にいるのか等とは思わなかった。
彼は神出鬼没、いつ何処に現れようとも不思議ではない。
「…明かりくらい点けてもええんちゃうか。」
薄暗がり、その中で振り向く。
部屋の闇に紛れて、真島はソファーに座っていた。
大股開きでジャケットの内側に手を忍ばせ、何かを取り出そうとしている。
「窓開けましょうか。」
「ん、頼むわ。」
懐から戻った手には、柔らかいが故にくたびれたソフトパックの煙草が握られている。
そこから一本を口に咥え、懐から今度はライターを取り出せば、慣れた手付きで火を灯す。
擦れた音、ぼんやりと真島の口元が暖色に照らされる。
その灯りはすぐに消え、仄かに灯った煙草の火と辺りに漂う煙だけになってしまった。
深呼吸をするように吸い込み、煙を吐き出す姿は見慣れている筈なのに、つい見蕩れてしまう。
なまえは真島の煙草を持つ手が好きだ。
何を考えているのか分からない表情で煙草を吸う姿が好きだ。
自分が持たないものを持っているように見える、それが格好良くて好きなのだ。
「…吸うてみるか、なまえ。」
「いえ、大丈夫です。私、煙草はちょっと。」
「せやろなぁ、なまえには…ちぃと苦すぎるわ。それにお前にこう言うんはまだ早いからのう。」
これでも成人してるんですけどね、と苦笑いのように眉根を下げて笑う。
阿呆、知っとるわ。と含み笑いが返ってくる。
掬われた、そんな気分だった。
救われた、とも表現しても良いが、どちらかと言うと前者の方が今の心境の変化にぴったりだった。
弱々しい感情が感傷に飲み込まれてもおかしくない中、彼は突然なまえの元へやって来た。
特に何かをしてくれた訳では無い、勝手に家に上がり込んで煙草を吸っている。
たったそれだけの事で、なまえのセンチメンタルな部分を綺麗さっぱり掬い取ってしまったのだ。
彼は、真島はそれに気付かないだろう。
あまりにも暗いこの部屋では色んな表情が曇って見え辛くなってしまう、それで良かった。
「…嬉しそうやなァ、どないしたんや。」
「真島さんが来てくれたから。」
「えらい素直やないか。ま、悪い気はせんなぁ。」
まだ煙草はそこそこに長い。
吸い終わるのに時間が要るだろう、けれど、なまえはその時間が焦れったく感じ、急かすようで悪いと思いつつも、まだ吸いますか?と聞いた。
真島は先に、ああ。と答えたが、やっぱ、もうええわ。と言い直し、手にしていた煙草の行方を考えている。
なまえは台所へ向かうと暗闇の中、手探りでとあるものを探していた。
ふと指先にコツンとぶつかる衝撃。
恐る恐る手にすれば、それは探していた物で、なまえはソファーで煙草を持て余している真島の元へと駆け寄った。
「どうぞ。」
「灰皿、あったんか。」
「だから、また来てくださいね。」
「ええで。コイツがあるんやったら、ここに寄らな損やで。」
「煙草を吸いに寄るんですか?」
「…ちゃうな。なまえに顔見せな、気が済まんのや。」
「真島さん、」
「この時間帯は何故か人恋しゅうなんねん、なまえ、お前もちゃうんか。」
また一つ、掬われた。
再び掬われたのは、彼に奪われたのは、心のどこにも置き場のないノスタルジー。
酷く動揺した、真島でも同じ様な事を思うのだと。
それと同時に、どくどくと熱く高鳴る胸から喉元へと、どうしても伝えたい言葉が流れ込んだ。
その言葉は自然と飛び出ていた。
「キスしましょう。」
珍しく積極的な誘いに真島は動じず、まず先に手元の吸殻を灰皿に収めた。
それから軽い手招き、なまえが更に近くに寄ると、腕を取られた。
回された手が優しく背中を押し、お互いの唇に触れる。
目を閉じた、口に微かな苦味が広がる、好きではないけれど悪くも無い。
そして温かな感触が消え、反射的に目を開けた。
「苦いやろ。」
「少しだけ。」
「もういっぺん、しよか。」
はい、と頷く、暗闇に慣れた視界が真島の笑う口元を見つける。
再びそれらが触れ合う、待ち侘びていたかのように、図らずとも二人を焦らしていたかのように。
先程より唇が熱を帯びる、静寂が無機質な雰囲気を艶やかに塗り潰す。
暗闇に溶ける真島の指先がなまえの頬に触れる。
革の滑らかな感触、先にぶつかったのは視線、また目を伏せた。
瞼を閉じる直前、微かに横目で見えたのは夜の淵をなぞる沈む夕陽の姿だった。
その口付けは貪るようなものでは無かった。
陽が沈み、夜の降ってくる僅かな時間の中で、それを許す限りに交わし、ふと外を見やれば、窓一面に夜闇の町が切り取られたように置かれていた。
小さな光源がそこら中に散らばっており、目を奪われた瞬間。
また真島の唇が攫っていく。
小声で、余所見したらあかん。と付け足し、なまえの体をそのまま大きな真島の体が包み込んだ。
ふわりと香る煙草の匂いに、背中に腕を回そうとした時だった。
お互いに体を硬直させた、二人の間に流れる良い雰囲気を台無しにしてくれたのは、腹部から聞こえた切なそうに響く腹の音。
なまえは顔から火が出そうな勢いで頬を真っ赤にしていたし、真島は笑いを噛み殺している。
その様子になまえは急いで距離を取り、俯いている。
真島はまだ堪えているが、そろそろ我慢の限界だろう。
「…腹、空いとんのか。」
「もう、こんな時間なんですね…。」
やっと絞り出した言葉で真島は遂にその表情筋を緩ませてしまった。
大口を開けて、手を叩きながら、ソファーの背もたれに体を預け、笑い転げる仕草になまえはいち早く席を立ち、この部屋の照明のスイッチを押す。
カチッとスイッチの切り替わる音、ぱっと暗闇を照らす明かり。
暗闇に慣れた目には眩しいけれど、照明が付いたことで、夕飯の支度をしなければならないと体が動いていた。
ソファーに居続ける真島の事は放っておく、今は一刻も早く腹の空きを満たしてやらなければならないのだ。
後ろで眩しい、だとか何とか聞こえてきたが、受け流すことにする。
まだ少し意地悪な感情のままだった、だが、それでもこうしてここに来てくれた真島への感謝はきちんとあった。
きっとあのまま一人だったなら、折角の休日がまた寒色に染まってしまう、そんな気がしている。
それにこの部屋には灰皿がある、真島はまたやって来るだろう、それがいつかは彼にしかわからないが。
でも、もし、また彼があの黄昏時に来てくれたなら、なまえは今日の様に身を寄せ合いたいと、そう思った。
今日はとても良い日だ。
さて、今日の夕飯は一体何にしようか。
一応後ろですっかり大人しくなった彼の分も作るとして、なまえが冷蔵庫に手を伸ばせば、後ろからあの切なげな音が聞こえてきた。
小さく吹き出すように笑い、なまえはとりあえず、と卵を三つ取り出した。
「お腹減りました?」
「…まあな、もう腹減って動かれへんわ。」
「じゃあ、出来上がるまでそこに寝そべっててください。」
「ん、そう言う事なら大人しゅうしとくわ。」
真島の、よろしく頼むで〜、と長い腕を適当に振っている様子を見てから、なまえはコンロに火をつけた。
ノスタルジーもセンチメンタルも、このフライパンに流し込まれたサラダ油の様に溶けていく。
今この瞬間、休日の憂鬱は終わりを迎えたのだった。
20180610 センチメンタルとノスタルジー