折れたハイヒールじゃあ帰れない



なまえは未だに呆気に取られていた。
担がれて連れていかれた先はホテルの一室。
あの男は確かに、静かでゆっくり出来るとこ、と言っていたが、結局は絡んできたあの男と目的が同じだった。
受付で部屋の鍵を貰い、備え付けのエレベーターに乗り込む男を制止するようにやっと声をあげた。

「あの…っ!なんでこんな所に…!」
「言うたやんか、静かでゆっくり出来るとこ、あんねん、て。」
「で、でも、まさかこんな、ホテルに来るなんて…!」
「あんなぁ、姉ちゃん。俺が道端で助けたお姉ちゃんをホテルに連れ込んで何かしようって輩に見えるんか?ああ?」
「…で、でも。」
「ええから、黙っとき。もうすぐ着く。」

勇気を出して声を掛けたものの、やはり先程の出来事のせいで先入観、と言うのだろうか、あまり強く出れない。
でも、その口ぶりからするに如何わしい事はしないような、そんな雰囲気だ。
しかし、今もこの男に担がれたままで、どうにも身動きが取れないのは困ったものだ。
それにいつまでもなまえの事を抱えているが、重くは無いのだろうか。
細身の体型だというのに、一体どこにそんな力があるのだろう。
今はただこの男の言った言葉を信じてみようと思う、半信半疑ではあるが。


なまえの臀部は柔らかな感触に包まれる。
弾力性のあるベッドにようやくなまえは降ろされたのだ。
男はと言えば、近くにあるソファーに腰掛けてテーブルに置かれているリモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。
なまえは自然と視線が膝元に行き、あの擦りむいた膝と伝線したストッキング、そして未だに脱がされないヒールを見つめている。
助けてもらえた事はとても有難いが、こんな所に男女が来るなんて、酷い勘違いしてしまいそうな状況に少し項垂れた。
男はまだどこのチャンネルにするか決めかねている、何度も画面の映像が切り替わる。
そして遂にその手が止まり、画面一面が肌色に覆われる。
甲高い嬌声も聞こえてくる、背筋がぞくぞくしてくる、変に気まずい。

「なあ、姉ちゃん。足、捻ってないやろな?」
「え、ええ、」

不意に声をかけられ、弾かれたように顔を上げると、やはりまた目の前に男は立っていた。
しかし、背景にちらつく肌色がとんでもないことになっていて男の方を見ることが出来ない。
なまえは視線を足元に戻した、背景の嬌声は次第に大きくなっている。

「しっかし、あれやな…。姉ちゃん、せっかく小綺麗な格好しとんのに膝に傷作ってもうて、なんか勿体無いのう。」

男はまた路上の時のように身を屈め、革手袋を着けた指先で膝の傷に触れる。
少し残念そうに見つめているが、その表情はすぐに変わってしまった。

「にしても、伝線、言うんか?こう言うんが破れとんのって、嫌でも唆られてまうわ。」

眉が下がり、残念そうだった瞳もいつの間にか爛々と光っていて、男の指先は傷ではなく、ストッキングの伝線をなぞる様に滑らせている。
唆られる、そう口にした男に警戒心が見え始める。

「まあ、そない固くなんなや、何も姉ちゃんのこと取って食おうっちゅう訳やないで。」
「で、でも…、」
「なんや、俺の事が信じられへん言うんか?」

眉間に皺が寄った男の眼差しは鋭く、僅かに恐怖が芽生えていく。
無言の時間が過ぎる中で、先に男が言葉を口にする。

「…やめや、やめや。姉ちゃんに睨みきかせてもええことないわ。だから、姉ちゃんももうちょ〜っと可愛い顔見せてぇな。」
「か、可愛い、顔…?」
「せやで、女の子なんやから笑顔のひとつでも見せんかい。」

また男は強面の笑顔を見せた。
あの時のバットを振るった時とは違う軽快な口調、なまえは少しだけ心が解されていた。

「あの、本当に今日は助けていただき、ありがとうございました。」
「ええねん、ええねん。あの阿呆がボケっと突っ立っとんのが悪いねや。」
「でも、こんな所に連れてきて、その…、どうするつもりなんでしょうか…、」
「そりゃあ…、」

再び訪れる無言の時間。
男は立ち上がると羽織っていた蛇柄のジャケットを脱ぎ捨てた。
上半身には滅多に見ることが出来ない模様が刻まれており、鮮やかな色のそれらは刺青であるとひと目でわかる。
鼓動が静かに高鳴る。


「おしゃべりに決まっとるやろ。」


なまえは二度目の呆気に取られていた。
こんなあからさまなラブホに連れてくると言うことは、そういった事を要求されてもおかしくない訳で。
なのに、目の前の男はそういうつもりではないと言い張ったのだ。

「ほ、本当に…?」
「当たり前やないか。それに可愛いお姉ちゃんが困っとったら助けたくなんのが、男っちゅうもんや。」
「そんな、」
「どや、俺に惚れたか。」

また身を屈めた男は鋭い眼光ではなく、優しげな眼差しを向けていた。
上手く言葉に出来ない、反応に困ってしまった。
口篭るなまえに返事を急かすようなことはせず、男は履いたまま置き去りにされたハイヒールに触れる。
つま先に収まっていたそれをそっと脱がせると、右足の折れたヒールを色んな角度から観察するように眺めている。
時折、うーんと考え込んだり、ぶら下がっているヒールを指でつついてみたり、好きな様に弄んだりしている。
けれど、男は何かを決心したようで、うん、と頷くと、宙ぶらりんのヒールを見つめたまま、なまえに声を掛けた。

「もうこないなってしもうたら履けんやろ。しゃーない、新しいの買うたるわ。」
「え、ちょっ、ちょっと、」
「なんや、文句でもあるんか。」
「いえ、そうじゃなくて…。どうして、お、お兄さんが靴を買うんですか…?」

すると、今度は男が口をぽかんと開けて、こちらを見やる。
その表情は驚きを隠せないようで、なまえも息を呑む。

「お兄さん…?…俺がか?」
「えっと、まだお名前を聞いてなかったので…。」
「いや〜、姉ちゃん!それええわ、ええで!」

驚いた顔が一転し、笑顔に変わる。
ころころと表情が変わっていく様は少し忙しそうにすら思える。

「なんや、さっきから姉ちゃん、俺の気持ちいいとこばっか突いてくるやないか。」
「え、は、はあ…。」
「余計に姉ちゃんにプレゼントしたくなったで、」

いやいや、と首を横に振って見せても、男はご機嫌と言った表情で遂には手にしていた靴を放り投げてしまった。
あ、と気を取られた瞬間、暖かい感触がつま先に当たる。
何度となく訪れる静寂、しかし今度ばかりはただの静寂では無かった。
そこには武骨な男の手があった、骨張っていて筋がうっすらと見える綺麗な色の白い皮膚がなまえの足首に触れていた。
ついさっきまで着けていた革手袋もどこかへやってしまったのだろうか、細長い指先の動きになまえは見蕩れている。

「ほっそい足やなあ、こんなんすぐ折れてしまいそうや。」

優しく労わるように触れるそれになまえはいつの間にか僅かながらに抱いていた警戒心を無くしてしまった。

「ええなぁ、女の肌は。いつ触っても気持ちええ、ずうっと触っとっても飽きん。」
「…みょうじ、なまえ。」
「ああ?」
「名前です、私の。」

ああ、そうかいな。と男はまだ指でなまえの足元を弄んでいる。
それから暫くして、男は小さく真島や、とだけ呟いた。
なまえは少ししてから、その言葉の意味を理解し、ありがとう、真島さん、と呟き返した。

「で、どないするんや。このままじゃ帰られへんやろ、」
「わたし、…まだ、」

なまえの言葉を遮るように、今まで忘れていた背景の嬌声が大きく響いた。
絶頂に達してしまいそうな甘く官能的な声が折角の雰囲気を台無しにする。
気が付けば真島もなまえもつけっぱなしになっていたテレビの画面に目をやっていた。
相変わらず一面が肌色のそれは暴力的な印象を受ける。
すぐに変な気にさせる、なまえはあまり注視しないように目線を外す。
しかし、それを知ってか知らずか真島はなまえに話し掛けた。

「なまえちゃん、今の見たか。」
「なまえ、ちゃん?…それって、」
「あのお姉ちゃん、随分気持ち良さそうにいっとったでぇ。」
「な、なんですか…!急に、そんなこと…。」
「もう遅い時間やし、街ん中の靴屋は閉まっとるはずや。せやから、開店時間になるまでここにおったらええねん。」
「真島さん…?」
「それに俺は一度言うたことはきっちり守らんと気がすまん。」

ええやろ、といきなり距離を詰めて真島は耳元で囁いた。
なまえはその低い声に背筋を震わせ、赤らんだ顔で小さく頷いた。
真島はしたり顔を隠さず、なまえの横に腰を降ろすと後に腕を伸ばし、姿勢を楽にする。
これまたご機嫌なのか、真島は鼻歌を歌い始める。


「一回くらいはお姉ちゃんと一緒にAVを見てみたかったんや。」


真島はそう言いながら、なまえのがら空きの手を掴んだ。
なまえは抵抗せず、そのまま真島に預ける。

「ほな、おしゃべりしよか。なまえちゃん。」



20180522 帰り道、蛇柄ジャケットの男



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