人や建物などで雑多に溢れかえる、お世辞にも綺麗とは言えない街を見下ろすことの出来る一室。
神室町の夜を背景に、その部屋には温かく香ばしい香りや穏やかな表情があった。
一人で食事をするのには大きすぎるテーブルに、立華となまえが二人きりで椅子に腰掛けており、ナイフとフォークを手にしてそれを忙しなく動かしているのはなまえだけだった。


なまえは立華の下で働く従業員と言う訳では無い。
二人の関係は深くはないが、ただの他人と言い切れるほど淡々としている浅いものでもない。
立華はなまえの働く飲食店を利用する客で、なまえは立華からそう言った依頼を受けて料理を運ぶ、とある飲食店の従業員だ。

料理の味を気に入ってくれたのか分からないが、初めて注文を貰った日から今日この日まで、なまえは何度もここへ通うようになった。
初めは料理だけ置いて出て行こうとしていたのだが、立華にお話しませんか、と誘われ、ついその日は長居をしてしまった。
念の為にとその旨を店長に告げれば、次からもそうしてやって欲しいと言われ、更に話を聞けば、あの人には良くしてもらっている、と意外な返事が返ってきた。
それから、なまえは立華の食事が終わるまで、この部屋に留まるようになった。
その時その時で立華の食欲を刺激しただろう数々のメニューを運び、時には談笑を交え、時には無理に会話をせず沈黙を選んだり。
二人はこの一室で、その日の気分や感情が色濃く見える時間を過ごしている。
立華は無口な男である、寡黙と言った方が聞こえは良いのだが、なまえはただ物静かな人物であると思っていた。
とある頼みを立華の口から聞くまでは。



「なまえさん、一つ頼み事をしてもいいでしょうか、」
「…ええ、大丈夫ですよ、私に出来ることなら。」
「そんなに難しい事ではありませんが、もしかしたら面倒に思うかもしれません。」

それはいつの日かの昨日、立華が夕食を食べ終えた時の事だった。
なまえはその時、立華が空にした食器を片付けており、もう直に店に戻らなければならないと意識していた中で、不意に立華に声を掛けられた。
あまり表情の読めない相手なのだが、今日は珍しくどこか躊躇いが見え隠れしているように思えた。
唇を閉ざし、両の目の綺麗な黒を少し泳がせてから、立華が口を開く。

「切っていただけないでしょうか。」
「切る…?えっと…、」
「みょうじさんがいつも運んでくれる料理の事です。」

立華の言葉の意味が遅れてやってきた。
なまえはそれに気付いた時、なんて失礼な事をしていたのだろうか、と自分を刺した。
立華の右腕の話を思い出す、以前なまえが失礼な視線を投げてしまった時に教えて貰った話だ。
心が萎んでいくのを感じる、無知ではない筈なのに、大切な事を見落としていた自分に心が萎んでいく。

「…困らせてしまいましたか?」
「い、いいえ、…その、すみません、前にお話聞かせて貰ったのに、」
「覚えてたんですね。私はそれだけで結構です、話す手間が省けましたから。」
「次の食事からは予めカットしてお持ちします、」
「いえ、ここへ運んでから切ってもらいたいんです。」

なまえは立華の言葉に疑問を抱いた。
こう言ったものは調理を終えてすぐカットしてしまえば、さほど時間もかからず、今とあまり変わらない時間で持ち運びが可能だと言うのに。
それになまえを選ぶという事は、なまえ自身の手際が悪ければ、その分だけ立華を待たせる事に繋がり、更に折角の料理も冷めてしまう。
意味を読み取れないなまえの疑問の表情に、立華は次を話していく。

「綺麗に盛り付けられた料理を見るのが好きでして、」

立華の言葉に耳を傾ける。

「それと同様に、みょうじさんが何かをしている姿も見ていたい。」
「…あ、その、つまり、どういうことでしょうか…?」
「そうですね、あまり遠回りに言っても仕方がありませんね。」

微笑んだ立華から躊躇いが消え、薄い唇から本音が落ちる。


「もう少しあなたとの時間が欲しい、と言っているんです。」

雑念や疑問で埋め尽くされていた頭の中が綺麗に片付いていく。
立華の言葉がそうさせたのだ、なまえの気を引き付け、その他の事は意識の外へと捨てさせ、本当に二人きりの空間で立華が真意を晒した。
なまえは返事を忘れていた、そんな一言今まで意中の男性にすら言われたことは無かった。
だからこそ、立華の返事に相応しい言葉を組み立てるのが出来なかったのだ。
しどろもどろ、あまりの動揺っぷりに自分でも危機感を覚えるほどで、なまえは自分の両手を重ねて握り締めた。
指先はとても素直だった、今にも伝えたい事があると何度も力んだり、弱めたりを繰り返すだけ。

「みょうじさん、返事を聞かせていただいても構いませんか、」

みょうじさんが嫌でなければ、と告げる立華に対する答えをなまえは知っていた。
そして、その答えは立華に惹かれるように、なまえの口から飛び出していった。

「はい、…私でよければ、」
「その言葉を待っていました。それに私は初めから、あなたが良いと言っていたのですが。」

淡々と吐き出す一言一言が、なまえの頭を何度も真っ白に塗り潰していき、なまえは頭が真っ白になる度、立華に心をざわつかせる何かを植え付けられる。

「きっと私なら、みょうじさん、あなたの時間を全て手にするのは容易いことでしょう。」

「ですが、こうした限りある時間の中で、あなたの時間をどれだけ手に出来るのか、知りたかった。」

我儘で酷い客でしょう、と静かに嘲笑を浮かべる立華に、ええ、本当です、と困った表情で添え、好きな子にちょっかいをかける男の子みたいです。ともう一つ添えた。
すると、立華は微かに驚きを見せた後、また別れが名残惜しくなりましたね、と返す。
なまえにも驚きが伝染し、目を丸くしている。
立華はそれを見て、密かに口元を柔らかく緩めていた。
こうしてなまえと立華の間に、一つの秘密が生まれたのだ。


そう言った経緯があり、なまえはこの場所へ訪れる時は必ず立華の目の前で、料理を一口大に切って提供するようになったのだ。
そして、今もなまえはその真っ最中だった。
ただ闇雲に何もかもを一口大にするのでは無く、なまえなりに見栄えや工夫を凝らしながら切り進める。
あまりナイフとフォークの扱いが上手くない事、切り分けるのも同じく得意でない事、なにか希望があれば伝えて欲しい事、それらは既に伝えてあるからか、立華はなまえの姿をただ黙って見ていてくれる。
例えなまえがミスをしてしまっても、かまいません、と気遣いを投げ、料理を口にすれば、美味しいですと優しさを声にした。
なまえはそんな立華との時間が好きで、今日も献身さを潜ませながらナイフとフォークを動かしていく。

物音の少ない空間に漂うのは緊張でも重圧でもなかった。
二人の間にしか分からない穏やかさであると気付いたのは、随分前の事だ。
何者にも脅かされぬ温もりの通う時間の中で、立華が声を掛けてきた。
なまえは手を止め、立華を見た。

「みょうじさん、いいですか、」
「はい、」
「そちらはもう少し、大ぶりに切ってもらえると助かります、」
「…ふふ、お好きなんですか?」
「ええ、私好みの料理なんです。」

それじゃあ、もう少し大きく切りますね、と短い返事を残して、なまえは再び手を動かし始める。
意識した大きさのそれを立華に問う、丁度良いです、といつもと変わらない、しかし、どこか弾むようなその声になまえは、一口いかがです?と更に問い掛けた。
すると、では、お言葉に甘えて、と立華は席を立ち、なまえの隣へと腰掛け、なまえのフォークを掴んだままの手に触れた。

「よろしくお願いします、みょうじさん。」
「よろしく、ですか…?」

なまえの反応に意外だと言いたげな表情を覗かせた立華は、またあの時のように躊躇いがちに返した。

「私はてっきり…。みょうじさん、あなたって人は察しが悪いようですね。」
「ああ、えっと、ごめんなさい、」
「いえ、謝罪は結構です。…ただ、」

「その一口、私に食べさせてください。」

左隣の立華はこちらへと顔を近付け、再び、お願い出来ますか、と口にした。
なまえは少し間を置いてから頷き、久々の緊張と共にそのフォークを立華の口元へと運ぶ。
立華は自分へと近付く腕が微かに震えている事に気付き、恐る恐ると言った具合のなまえの手首を優しく掴むと、そのまま自分の方へと引き寄せた。
薄い唇がフォークを食み、それは無事に口内へと運ばれて行ったのだ。
なまえの意識は未だ触れたまま置き去りの立華の左手にある。

「とても美味しいです、」

みょうじさんもおひとつ、いかがですか。と問われ、なまえの手首から離れた左手が今度はフォークを奪い、皿の上の切り分けていた一口大のそれを一つ刺す。
不敵な笑みの奥に見つけた、彼なりの暖かな何かになまえは自然と、いただきます、と返していた。
では、こちらへ、と立華の声に誘われ、なまえは先程の立華と同じように顔を寄せる。

先になまえに触れたのは、フォークでは無く、立華の指先だった。
それは顔を沿うように垂れた髪を一束指に絡ませ、そっと耳元まで攫って行く。
驚き、照れ、恥じらう暇など作れないまま、なまえはその一部始終をどこかの映画にあるワンシーンのようだと、ただぼんやりと見つめていた。
取り残された意識と表情を揺さぶられた、立華によって。

「…さぁ、どうぞ。とても美味しいですよ、みょうじさん。」

もう時間を稼ぐ事は出来なかった。
微かに唇に触れたそれを口にしてしまった今、なまえは口内に広がる味が分からなくなっていた。
味覚が麻痺している中、立華はどうでしょうか、と問い掛け、その返しを待っている。
咀嚼に紛れて返事を組み立てる、どんな言葉でこの感情や思いを伝えれば良いのか。
何度も繰り返される咀嚼の意味さえ霞んでしまいそうなその時、何かを感じ取った立華が先に話し始めた。

「素直さがあなたの、みょうじさんのいい所だと思います。」

「ですから、率直な感想を。」

強ばっていた心の緊張が解けた気がした、それと同時に麻痺していた味覚が少しだけ戻ってきたような気もしている。
何度目かの咀嚼、ようやくその行為の意味を思い出す。
口に広がる味が心を、体を刺激する。
ごくりとそれを飲み込んだ先に待っていたのは、美味しいと言う言葉だった。
溢れたそれをありのままに立華に投げれば、立華も満足そうに、そうですか、と呟いた。


相変わらずこの一室は静寂に包まれ、後は二人の話し声だけが響いている。
しかし、今夜はいつもと違い、まるで気心知れた友人のように身軽な言葉だけが交差する。
二人並んで隣同士、左の彼女と右の彼、フォークは以前彼の手元に。
騒々しくも美しい神室町の夜を切り取ったその部屋の中で、二人は温もりを分け与えていく。
神室町のネオン色の喧騒が、星を食い潰された夜空が、その一室を飲み込んでは何事も無かったかのように夜を流れていった。



20181229 食事の楽しみ方



top