騒々しい人の濁流の中に、一つ臙脂色を見つけた。
それはスーツの色であり、身に付けている男も飄々としていて、顔も悪くない。
もし今夜付き合ってもらうなら、あの人が良いと思っていた。
なまえは他の同性に比べて、異性から好かれやすい女だった。
特別顔立ちが綺麗なわけでも、可愛いわけでもない。
不思議と異性に声をかけられる事が多い女で、なまえはそれを利用して、蒼天堀の夜を楽しく過ごしてきた。
空腹を訴えれば、美味しい食事が出てくる店へ。
あれが欲しいと口にすれば、欲しかった『あれ』はすぐに手元へとやってくる。
別れを惜しむ言葉を差し出してやれば、代わりに、と何枚もの紙幣を握らされた。
人の金で遊び呆ける、なまえのやっていることはそこら辺のチンピラと何も変わらない。
ただその金を毟り取っていく人間を受け入れられるか、そうでないか。
要するに『魅力』を纏った女か、『恐怖』を纏った男か、それだけの違いである。
なまえは自分が前者であると知っていた。
だからこそ、今夜も見ず知らずの誰かの懐に転がり込む。
相手の事情や身元は一切知らない、必要なのはそんな事じゃない、相手の大人としての余裕がなまえは欲しかった。
点と点が繋がるように、いや、無理にでも点と点を繋ぐように、なまえは人混みの中を歩いていく。
その臙脂色に重なるように真っ直ぐ、足取りに迷いはない。
距離が近付けば近付く程、あともう少しだと心臓が鼓動を刻む。
歩幅の違う彼へ、なまえは駆け出し、その袖に触れようと手を伸ばした時だった。
不意にその彼は、立ち止まってこちらを振り向いたのだ。
予想外の行動になまえは足を止められず、言葉通りに臙脂色の彼の懐に転がり込んでいった。
鈍い衝撃、肩に添えられていた両の手、ふわりと香る男の匂い。
なまえは出鼻をくじかれた気分だった、男はそんななまえの心情を知らず、声を掛けてきた。
「怪我しとらんか、お姉ちゃん、」
「え、ええ、…ありがとうございます、」
男の懐から見上げた先に、その顔があった。
無事を聞いた割には心配そうに見えない、口角を思い切りに上げた笑顔。
黒い髪は左右に流され、左耳にあるたった一つのピアスが光り、その似合わない笑みで細まった目元、肩に添えられていた筈の手は、いつの間にかなまえのウエストまで下がって来ていた。
妙に胸がざわつく、何故だろう、黒い靄のようなものを感じたのだが、気のせいにする。
「お姉ちゃん、えらいべっぴんさんやなぁ。」
「ありがとうございます。お兄さんにそう言ってもらえると、嬉しいです。」
「なんや、言葉遣いも綺麗なんやなぁ。…ええわぁ、ええでぇ、お姉ちゃん。」
素直過ぎる男の視線が、なまえの口元から胸、そして下腹部へと行ったり来たりを繰り返している。
ウエストにあった手のひらが今度は腰を抱いた、服の上からでも分かるくらいに男の手は暖かい。
「なぁ、今からワシとええことせぇへん?」
「ふふ…、お兄さんったら、大胆な事言うんですね。」
「悪い気せぇへんやろ?お姉ちゃんが付き合うてくれる言うんなら、ワシなんぼでも金使うたるわ、」
どや?と問う男の顔が近付いてくる、好奇心と生臭い欲求が見えた。
それを上手く避けるように、ごめんなさい、と女らしさが剥き出しの言葉を挟んだ。
「…ごめんなさい。そう言ってもらえて嬉しいですけど、私、お兄さんの言う、ええことって言うのが怖くて、」
「ええこと言うたら、ええことやないか、」
「つまり、…そういう事をお兄さんと、って事ですよね…、」
再び、ごめんなさい、と唱える。
この言葉は魔法のようで、三回唱えてしまえば、相手はそう言った期待を捨ててくれる。
「そらぁ、悪い事言うたわ。すまんなぁ、お姉ちゃん。」
「いいえ、私の方こそ、」
「でも、このまま何もせんと別れる言うんは勿体ないのぉ、」
腰を抱いたままの手のひらが、さわさわと上下に動かされる。
なまえが言い出すよりも先に、男が次を提案した。
なにか美味いもんでも食いに行こか、となまえが望んでいた答えを導き出した男へ、一度頷く。
男の表情が余計に明るくなり、なまえも奥手さを被りながら、それくらいなら、是非、と口にする。
男は西谷と名乗った、なまえはどこかで聞いた事のある名字だと思ったが、一体どこでそれをどういう風に聞いたのか思い出せなかった。
口の中いっぱいに広がった、和食の素朴で優しい風味が忘れられない。
有名な料亭だろうか、少なくともここに住んで長いなまえさえ知らない場所だった。
店の至る所に気品が散りばめられ、この一室に案内をしてくれた彼女も、ここへ美味しい料理を運んでくれた彼女も、誰もが品のようなものを持ち合わせていて、なまえは料亭へ連れられる事もあるのだと、今日の服装を恨んだ。
大胆な色のボディコンを着て、みっともないくらいに肌を露出させたなまえの姿はあまりに不適切だと思えた。
しかし、今夜は一人ではない。
同じように派手なスーツを着た西谷が居たおかげで、後ろめたさも美味な一口にたちまち消えて行く。
やはり今夜はこの男で良かったのだと確信する。
時折垣間見える際どい視線にさえ合わせなければ、意外と楽な相手である。
まともに読めやしない料亭の看板を見やる、いつかまたここへ来ようと決めた。
隣に立つ相手はきっと違うだろうが、どうでも良いのだ。
この今日という日が終わりを告げる瞬間のように、その事は重要な事ではない。
虚しくもこうして自分の値段を、価値を確認する。
ずるずると引きずっているのは、夢見がちな頃の自分の亡骸である。
今も尚、この手を放そうとせず、何かを待っている。
これ以上は期待出来ない、希望を持つ事もない、と決めた割には、未練がましい自分の姿に辟易してしまう。
その隙間を、胸に空いた穴を、日に日に胸から落ちていく心の欠片を置き去りにして、蒼天堀の夜を明かす。
長居を許さない足取りでなまえは西谷と店外へと出た。
今日はもう十分だった、空腹も満たされ、この後に進展することは無い。
二人の間を吹き抜ける一つの風のように、その関係は薄情で何の面白味も感じられない。
別れを告げようとしていた、自分勝手ではあるが、去り際はこちらから声をかけるようにしているのだ。
相手が自分に抱く感情が最悪なものでも良い、心を入り込ませている暇など最初から持っていない。
『楽しかった』、『ありがとう』、『またいつか』、三回唱える不思議な呪文は数多くある。
もしかしたら、このたった三言が会話のあるべき姿なのではないかと思う。
一つ唱え、二つ唱え、三つを唱えようとしたタイミングで、二人の正面、つまり料亭の入り口の前に、闇に溶けきらないセダンが止まった。
驚きの単音は溢れない、突然自分の目の前に止まった車に対して危機感を覚えてしまい、言葉が出てこない。
運転席に座っていた男も黒服を着ており、背筋を何かが駆け抜ける。
黒服の男は感情を一ミリも見せず、ただ淡々と、親父、迎えに上がりました。と告げた。
『親父』、そのワードに危険信号は鳴り止まない。
脳内にまで冷や汗をかいたような気分で、なまえは何も言えず、沈黙を口元に添えたまま、西谷を見た。
にぃっと笑みを浮かべ、なまえの横をすり抜けては、黒服が開けた車のドアに吸い込まれるように、後部座席に座った。
「なぁにぼうっと突っ立っとんねや。お姉ちゃんも、はよこっちおいで。」
この車に乗る事を遠回しに強要されている気がした。
こちらを見やる黒服の眼差しも、自分の隣のシートをぽんぽんと軽く叩く西谷の仕草も、薄ら冷たく薄情なそれと同じだった。
「まだまだお姉ちゃんと一緒におりたいだけやないかぁ…、なぁ?」
声をかけられた黒服は、ええ、と物腰柔らかそうな言葉を選び、さあ、親父も待っとります。となまえの瞳の奥ばかりを何度も浅く、そこからゆっくり深く刺していく。
昆虫標本のように腕や足、頭にさえもピンを刺し、なまえへ逃亡は決して許されないと沈黙で告げているのだ。
あからさまに距離を詰める事や凶暴さを見せる事をしない、黒服のその言葉に首輪を嵌められたようで、なまえは酷く怯えた一歩を踏み出した。
「あかんあかん、お姉ちゃん怖がっとるやないか。」
「すみません、失礼しました。さあ、こちらへ。」
「おお…、可哀想になぁ。怖かったやろ、なまえちゃん。」
怯えた足が震えるようになった。
西谷はまた黒服に、ほれ、震えとるやないか!と軽い口調で、黒服の男を叱責する。
その一方でなまえは無言のまま俯いていた。
遂にピンが胸を貫き、なまえは微かに聞こえる心臓の音を聞くしかなかったのだ。
目の前が次第に真っ暗になっていく、視界にある色が抜けて、モノトーンのグラデーションがかかっていく。
なまえには何も心当たりがなかった。
西谷の名前は聞いたものの、自分の名前を教えてなどいない。
沈むシートはやや硬い、なまえは既に奥へと進んでしまった自分自身に後悔する事になった。
「ど、どうして、」
「あったりまえやないかぁ〜!ウチのシマで、好き勝手にやっとるお姉ちゃんのこと、知らんわけないやろ。」
「ウチのシマ…、」
「自分、鬼仁会の西谷言うねん。言うてへんかったか?」
鬼仁会、その言葉に咄嗟と口元を手で隠していた。
なまえの反応を見た西谷は、多少がっかりした様子で、なんや、お姉ちゃん、知っててワシに声かけたんとちゃうんか、と項垂れてみせる姿に笑いなど浮かんで来なかった。
「にしてもや、お姉ちゃんは見る目があるでぇ。ワシは大当たりの男や!」
なまえの後悔を褒めちぎる西谷は残酷な男だ。
「今夜はちょうど暇しとってなぁ…。それでなまえちゃんのこと、探しとったんや。」
飄々と一人で会話を進めていく西谷の言葉は、既になまえの耳に届いていない。
塞ぎ込んでしまったなまえの腰に手を置き、西谷は黒服に告げた。
「はよう、閉めんかい。お姉ちゃんの体が冷えてまうやろ。」
大事な体や、もっと優しく扱わんと、と西谷は愉快そうに笑う。
車のドアが閉められる音が、自分のいた世界に捨てられた音のようだと感じる頃には、腰に手を回し、体を抱く西谷の事を何とも思っていなかった。
気が付けば、夢見がちな亡骸もいつの間にか消えていた。
***
車の振動、腰元に落ち着いた臙脂色の腕、それらに着いて行った先にあったのは、とあるビル内の寂れた一室だった。
そこはまるで倉庫のように、いくつもの棚が並べられ、中身のわからない段ボールが置かれている。
埃臭いパイプ椅子に座らされ、なまえの目の前で屈んだかと思えば、思い切り尻を床に預けて座る西谷の姿があった。
「…これから、どうするつもりですか、」
「どないしたらええと思う?お姉ちゃん。」
「なんで、そんなこと…、」
西谷の考えている事が分からない。
なまえはてっきり、彼らのシマを荒らしたお返しが自分に待っていると思っていたのだが、西谷の様子からは本当にどうしてしまおうか考えあぐねているように見えた。
「ホンマはなぁ、ちぃっとばかし悪い事も考えとったんや。」
「…でしょうね、」
「なぁ、お姉ちゃんはワシにどうされたいとか無いんか?」
「ある訳ないじゃないですか、そんなこと、」
強いて言うなら、となまえは続け、このまま何も無かったように見逃してくれたら、嬉しいです。と口にする。
二人で居続けた事で麻痺してしまった感覚が、なまえにそう口走らせた。
西谷は驚いたように目を見開いた後、じっとなまえの瞳を黙って見つめ続けている。
その鋭い眼光が刺さり、なまえは息を呑む。
「ええで。」
意外さが西谷の声と言葉になってやって来た。
「お姉ちゃんに会いたいっちゅうのはホンマやった。せやけど、実物を前にしたらのぉ、」
惜しくなってもうたんや、とにやけ顔のまま、襟元を誠実にまとめていたネクタイを緩める。
なまえはと言えば、西谷の言葉に内心逃げるチャンスが出来たと喜んでいた。
正直な話、なまえはここに連れられた時点で、生き地獄が待っていると思っていたのだが、西谷の心変わりに命拾いした気分だった。
「でも、馬鹿正直に帰すっちゅう訳にはいかんのや。お姉ちゃん、堪忍な。」
「…条件ですか、」
「せや。お姉ちゃんがなんかしてくれるんなら、ここから出してもええ、」
「それで、その条件って、」
うんうんと唸っている西谷が、その条件について本当に考えているのか、ただそんな素振りをしているのか、分からなかった。
お預けを食らっている苛立ちと、どんな無茶を言われるのかと言う緊張で、なまえは目眩が起こしそうだった。
しかし、西谷の提示する条件次第でなまえは生きてここを出られるのだ。
「…そや。ワシのコレになってくれるんなら、ここから出したってもええなぁ。」
難しい顔を一変させ、まるでナイスアイデアだと言わんばかりに顔を緩ませた西谷は、自分の右手の小指を立て、なまえを見た。
そのジェスチャーと軽い口調で吐き出された条件に、なまえは心の底が冷えていくのを感じた。
立てられた小指が意味するのは、途切れない束縛と許された自由。
それを飲まなければここで終わる、それを飲み込めば終わりが先延ばしになる。
しかし、それはなまえの求めていた解放とは全く異なるものだった。
「そない怖い顔せんでもええやないかぁ、減るもんとちゃうやろ?」
答えを出せないなまえの正面で西谷は立ち上がると、更に距離を縮め、次第に俯いていくなまえの頭に手を添えた。
「これから、仲良うしようや。なまえちゃん。」
選択を委ねられているようで、決してそうではなかった。
沈黙か、静寂か、黙り込んだなまえの答えは、最初から決められていた。
頭を撫で付ける手のひらの温かさが現実的で、悪い夢にしてはよく出来ている夢だと思えた。
こうして、蒼天堀の夜から一人の女が消えた。
街を徘徊する臙脂色も見かける事はなくなり、当分の間、二人のいない蒼天堀の夜が繰り返された。
20181220 探す男と見つける女