両腕が震えている。
部屋は静まり返っていた。
腕の震えを止められない、止め方を知らなかった。
胸を詰まらせながら、呼吸をする。
震えが遂に体全体にまで感染し、呼吸も不規則に乱れていく。
まともに声も出せない、自分の普通ではない呼吸音だけしか聞こえない。
深呼吸をしても、何度繰り返しても、一向に冷静はなまえを訪ねて来てくれなかった。
瞬きの一瞬の間に、先程の出来事がフラッシュバックする。
鉛のように重たい両腕の先には、暗闇の中に決して紛れずにある、同色の拳銃が握られていた。
なまえが今も尚、その身を震わせている部屋に人影は二つあった。
一つはなまえ自身、もう一つは黒い血溜まりを拡大させ続けている、床に伏した男。
事の発端は、この男のとった行動だった。
この男は、とある人物の使いでここへやって来たと、開口一番になまえに告げた。
しかし、その話に妙な違和感を感じ、その場で帰ってもらう様に話をしたのだが、相手は全くなまえの話を聞かず、強引にも力任せに侵入して来たのだ。
その男の目は理性的では無く、嫌悪を抱く様な、どす黒いものを手土産に持ってきた。
なまえは恐怖に襲われながらも、手当たり次第に物を投げ付け、必死に抵抗した。
その中に拳銃が紛れ込んでいるとは知らずに。
いや、本当は知っていたけれど、こんな物を使う日は来ないだろうと勝手に思い込んでいたのだ。
今、思い返してみれば、あの人の言っていたことは皮肉にも正しかった、となまえは実感していた。
それが一心に、人の温かな部分を信じていたなまえの胸を引き裂こうと爪を立てる。
手にした拳銃で男を撃ちはしなかった。
女が、恐怖を患った女が、口にするのにはあまりにも弱すぎる、ただ言葉の意味合いが強いだけのそれを投げ掛けた。
男は全く表情を変えず、なまえに近付き、拳銃を取り上げようと乱暴にその手を掴んだ。
しかし、それが男の良くない所で、手首に無理な力が加わってしまった事で、なまえの指先は硬直し、その引き金を引いてしまった。
男の体が一度跳ねる、それからは不自然に体を震わせ、不快な呼吸音を響かせた後、なまえの目の前で吐血して倒れた。
なまえは男だったものと距離を取る様に、出来るだけ遠く、と背中を壁に預けて、座り込んだ。
それがこの部屋に倒れている男となまえにあった出来事である。
静かな部屋で物音が聞こえた。
音から察するに玄関の扉が開いた音で、なまえは再び鋭利な恐怖に襲われた。
一体誰が、何の為にここへ、もしかしたら、この男の…、となまえの負の感情が沸騰する寸前、今度は声が聞こえた。
「…随分と、派手にぶちかましたようだな。なあ?なまえ。」
冷たい男の声だった、目の前にある惨状を何とも思わない、冷め切った男の声、なまえが心を寄せる男の声。
部屋の入り口にもたれかかったその男は、まっさらに白いスーツに身を包み、何事も無かったかのように腕を組んでは、死せる男となまえを見ていた。
オールバックにまとめられた彼の髪は、もう二度と彼の視界を遮ることはないだろう。
「に、錦山さん、」
「なんだよ、また他人行儀な呼び方か。冷てぇじゃねぇか、あんまりだぜ。」
錦山の視界には、男の遺体は映っていないのだろうか。
そう思えるくらいに錦山は、自分の目の前に転がる死体について触れなかった。
なまえはそれが恐ろしいと視線を逸らす、それすらも当の本人は気にかけていない。
もたれかかるのに飽きた錦山はなまえに近付く、足に触れた男の亡骸を蹴飛ばして。
「邪魔くせぇよな、アレ。俺が始末しといてやるよ、」
こういうのも俺の仕事だからな、と口にする錦山の表情は至って冷静そのもので、ここへやってきた時と何も変わらない。
涙を零し、ぐちゃぐちゃに顔を歪めているなまえとは大違いだった。
錦山はなまえが涙していると気付いた所で、大きなため息を部屋に逃した。
そして、定型文のように、何があった、となまえに問う。
なまえは震える声にならない声で、事の経緯を説明する。
男が近付き、銃が暴発して、と告げた所で、錦山は突然口元を笑みで歪ませた。
小さく吹き出すように笑っている、なまえの涙も不意に途切れる。
よかったじゃねぇか、と軽口を叩きながら、なまえから拳銃を奪ったのは錦山だった。
そして、慣れた手つきで床に横たわっている男の形をした、それに照準を定めて引き金を引いた。
死んだ肉体は肉塊のままで、撃ち抜かれた衝撃に体を跳ねさせている。
黒い水溜まりが徐々に床を汚していく、出血部位が増え、その勢いは最初のものとは比べものにならない。
「まぁ、念には念をって言うだろう。」
「で、でも…、」
「いいじゃねぇか。俺がいくつ死体を並べた所で、お前を疑うヤツなんざ、いやしねぇ。」
「私は、錦山さんに、そんなこと…、」
「じゃあ、自分が殺しましたって馬鹿正直に言えんのか、」
再び鋭利な恐怖がもたらされた、錦山の言葉によって。
「俺はそれでも構わねぇ。だってそうだろ?組長の女が殺しをやってもおかしい事はねぇ、なんなら箔が付く、それに、」
コイツみてぇな馬鹿に襲われたりもしなくなるだろうよ、と言い放つ錦山の瞳に、どす黒いものを見た。
あの男だったものとは違う、別物の何かが錦山の中にあった。
それが怒りであるとなまえは知っている、錦山も少なからず今回の出来事に怒りを覚えているのだと。
だから、彼は念の為と言いながら、肉を撃ち抜いたのだ。
「ごめんなさい、こんな事に…、なってしまって…、」
「今から部屋を手配する、今夜はそこで過ごせ。次の部屋が決まるまで、また暫く別の場所だ。」
「…あの、今夜は、」
一緒に、と吐き出した言葉を錦山は黙って聞いていた。
瞬きを挟み、悪いがまだ用がある、とだけ言い返すそれをなまえは飲み込んだ。
苦々しい顔をしたなまえは心の隙間で、いつもの事だと吐き捨てた。
何度も何度も期待を持ってしまう自分は馬鹿であると思い知る、苦々しさを飲み込む度に。
目頭が熱くなる、哀れであると、愚かであると、惨めであると、悲しいほど自分を追い詰める言葉だけは知っている。
拭ってもらわなくて良い、拭ってくれはしないだろう。
心を寄せる事とは、こんなにも冷酷で苦しく、生きた心地のしないものなのだろうか。
純粋にその意味を問いたくなる、彼の大切なあの人に、彼は教えてくれるだろうか。
冷たい、あまりにも、無機物的にすら思えるやり取りに。
自分が我儘であると言うことも十分に分かっていた。
あの人の事をたまに取り出してみても、やはり心を占めるのは、心を締めるのは、錦山から与えられた冷める事を知らない熱。
「…本当にごめんなさい、手間取らせてしまって。忙しい時に、時間を割いてもらって…、」
「それが本心なら、よく出来た女だな、お前。」
「私は、そんなんじゃ…、」
「お前は昔からいい女だったよ、でも、俺の知ってるなまえはよく出来た女じゃねぇ。」
馬鹿な女だ、昔の俺にそっくりな、馬鹿正直な女だ。
錦山は変わらない声音でそう言った、しかし、その言葉はなまえの恐怖に穴だらけにされた心に、しっかりと真っ直ぐに突き刺さった。
眉根一つ動かさない貼り付けたような表情、感情の有無がわからない吐き出される言葉。
錦山組の看板を掲げ、組長になった男の変わらない言動や行動だった筈なのに、昔の優しい彼の面影を見つけてしまった。
微かに滲むそれがなまえの心の穴をゆっくりと縫い合わせてくれる。
「錦山くん…、」
「その馬鹿が治る頃には、俺は、」
「…治らない、これはずっと治らない、」
だって、言うでしょ…、と久しぶりである懐かしさと愛おしさに涙するなまえを見た錦山は、ああ、と続けた。
「馬鹿は死ななきゃ治らねぇ、ってか、」
こくりと頷いたなまえの顔がどうしても目前から消えず、錦山は二度目の溜め息を吐き切り、夜明けには戻る、と告げ、その場を立つと、呆気に取られた顔をしているなまえの震える手をとった。
そういう表情をするから、お前は馬鹿なんだ、そういうお前の表情一つで気が変わる俺もまだ馬鹿だ、と錦山は再び三度目の溜め息を吐いた。
20181111 愚直に想う