疲労感を背負っていく帰り道は酷くつまらなかった。
大きさも疎らな石が転がり、誰の邪魔にもならない雑草が隅に生える道を沈黙の中、ただ歩いていく。
それを破るものは自分の靴が鳴る音と、自分と同じように帰りを急ぐ誰かの足音、そしてあっという間に通り過ぎていく車のアクセルと排気音だけだった。
遠ざかっていく車の後ろ姿をぼんやりと追い掛ける、そこから簡単な連想ゲームで、どこかに行きたいなあ、と遊び心が顔を覗かせる。
仕事に追われる生活と言って良いのだろうか、自分より激務な人は居るはずだと三角形の頂点から真下を眺めれば、多少は良い方なのだと思えた。
遊びの件はきっとまた今度、ゆっくり時間がとれたら、と空欄だらけの予定と先延ばしの約束を交わす。
帰路を急ぐでもなく、夜の深まる様を理解出来ないまま、なまえは自宅に到着した。
ここでふと疑問に思ったのは、今の今まで留守にしていた筈のこの部屋の明かりが何故かついている事だ。
まさか泥棒じゃあ…と良くない事が頭を過ぎったのだが、実は一つだけ心当たりがある。
なまえは目の前の扉に手を掛ける、簡単に開いてしまう扉、入ってすぐの玄関先に脱ぎっぱなしである爪先が光る尖った革靴、明るい部屋から聞こえてくる柄の悪そうな関西弁。
先に革靴の踵を合わせて並べてから、なまえは自分のヒールを脱いで同じように隣に並べる。
廊下を抜けた先にあるリビングに心当たりの彼はいた。
横目でこちらを見ながら、手元は何故か忙しなく動いている。
「おう、遅かったやないか、」
「真島さん、ただいま。…なんだかいい匂いがしますね、」
キッチンに立った真島の姿を見て、ふと気付く。
真島がなまえの使うエプロンを首から下げて、フライパンとお玉を握っている姿に、換気扇の音、食材がフライパンに熱せられる音、そして忘れていた空腹を思い出させるように、食欲を煽ってくる匂い。
なんと真島が料理をしている、なまえは微かに驚いていた。
「あとちょっとでメシや、はよ準備せえ。」
「真島さんがご飯作ってくれるなんて…、今日は何か良いことがあったんですか?」
「ええことか、どうやろなァ…。そう言うなまえはどうなんや。」
真島の問いに、なまえも言葉を続けようとしたものの、今この時までにあっという間に流れていった時間にそれを探してみる。
時計の針に合わせた一日の繰り返しは単調で、あまり面白みはない。
そして、それは残念な事に今日も変わらない、ただ真島が今こうしてなまえの家に居るという事を除いて。
一人暮らしであるこの家に、自分が居なくても明かりがある。
それは先程なまえが家の外で見た光景であり、遠い昔の小さな自分を思い出す様で、誰かが待っている家と言うものの温かみに、荒んだ心の患部が癒えていくのを感じた。
真島がここに居るのは彼の気まぐれだろう、しかし、その気まぐれがなまえの単調な一日を少しだけ良い日に変えてくれる。
ちょっとだけ、と控えめな返事をすれば、真島は手元に集中しているのか、振り返りはしないものの、良かったなァ、といつもの声音でそれは返ってきた。
いつもと変わらない、特別とは言えない真島のその一言が、妙に優しく感じられて、なまえは擽ったい気持ちを抱える。
なまえはキッチンに立つ真島の優しい背中から、目が離せずにいた。
それから数分後、遂に真島の料理が完成したらしく、真島にそう告げられたなまえは、急いで簡単な身支度を済ませ、リビングに戻ると、テーブルの上には二人分の食器が向かい合うように置かれていた。
「真島さん、他に何か運ぶものありますか、」
「なら、この汁もん頼むわ、これ持ってったら最後や。」
暖かな湯気がなまえの顔を通り過ぎて、ゆっくりと上へ消えていく。
優しさに忘れていた空腹が、次第にその主張を大きなものに変え、なまえの腹部から小さな音となって逃げていった。
受け取ったスープをトレーに乗せ、テーブルに並ぶ食器に合わせて並べていく内に、意外にも真島は料理が出来るのだとぼんやり思う。
品目は多くないけれど、それでも十分だと思えた。
真島の気まぐれに顔が綻ぶ、この優しさがなまえには嬉しかったのだ。
「先に食っとってもええで、」
「私待ってますから、大丈夫です。」
「真面目やのぉ、…ほんなら、俺ももう食うたるわ。」
片手間にエプロンを外した真島はキッチンの照明を落とし、なまえの正面に腰を落ち着かせる。
慣れないことをしたからなのか、真島は首を回したり、体を伸ばしたりと忙しそうだ。
なまえは、『いただきます』よりも先に真島へと伝えておきたい言葉があった。
きっと優しさにあてられた今なら、素直に伝えられる気がして、真島の名を呼ぶ。
あ?とこちらを見やる真島は、既にスープに口をつけていて、一口分啜った後にそれをテーブルに戻した。
「あの、ありがとうございます。」
「なんや突然、そないな顔して、」
「今日も本当は、いつもと変わらない日だったんですけど、」
真島さんのおかげで良いことがありました、と話すなまえは素直なのだが、まだ恥ずかしさを捨て切れていないようだった。
その恥ずかしさは簡単に真島にも伝染し、真島も言葉を詰まらせ、照れ臭そうに視線をあちこちへ逃がす。
「ええんや、それで。なまえがほんのちょっとでも、ええ日やったと思えたんなら、俺はそれでええ。」
「…真島さん、」
「…はよ食わんとメシが冷めてまう、折角の美味いメシがもったいないで。」
はよ食えや、と真島に急かされ、じゃあ、いただきます。とレンゲを手に取ったなまえは、テーブルの上に並ぶスープと真島特製のチャーハンを目の前に、ごくりと喉を鳴らした。
多めにそれを掬ったレンゲを口に運び、ゆっくりと咀嚼していく。
口の中いっぱいに温かな熱が広がっていった。
玉子、ネギ、チャーシュー、物珍しい具材じゃないそれらで作られた素朴でシンプルなチャーハンだが、胸の奥が不意に温もりを帯びる。
多少熱くともなまえは気にせず咀嚼を続けた、ずっと食べていられるような不思議な味だった。
何かを待つような、真島の期待溢れる眼差しに、なまえは、美味しい、と言葉を差し出す、当たり前やろが、と真島が返事をする。
「真島さんって料理出来たんですね、」
「まあ、昔にな、中華料理屋をやっとった知り合いがおってな、」
「じゃあ、そこで?」
「付き合いもそこそこにあったからなァ、何となしに聞いて覚えとったんや。」
「だから、こんなに美味しいんですね、」
そんなに美味いか?と聞いてくる真島の顔は不思議そうで、なまえは真島のその表情を不思議がっている。
疑問符が二つぶつかって消えた所で、真島が話を続けた。
「なまえもアホみたいに最近忙しゅうしとったやろ。せやから、吾朗ちゃんのめちゃくちゃうまいチャーハンでも食わしたろ思てな。」
「とっても…、めちゃくちゃうまいです、真島さん、」
「せや、吾朗ちゃんは幸せの味がすんねや。」
なんですか、それ、と笑いを零したところでなまえは、自分の胸の満たされ様に気付かされた。
温もりが消えない幸せの味、痩せた心がゆっくりと柔らかく膨らんでいく程の満たされ様。
『吾朗ちゃんは幸せの味』、なんておかしな言葉だろう、なんて暖かい言葉だろう。
心にのしかかっていた不安も疲労も、煩わしささえも、今はもう無い。
真島がそれをどこかへやってしまった、彼がいてくれたお陰で、心がいつの間にか忘れていた優しさを思い出す。
美味しい、と再び声にする。
真島の言った幸せの味を噛み締めるように、なまえはチャーハンを食べ進めていった。
付け合わせのスープも時折啜りながら、次第に腹部から温まっていく感覚さえ大切に、なまえは一口一口ゆっくりと口へ運んだ。
その中で食器の底が徐々に見え始めて、なまえは気付かされる。
あと少しでこの幸せを食べ切ってしまうのだと、そしてそれが惜しいと思う事にも。
真島を見れば既に食事を済ませており、真島は飲み物を取りに席を立った。
なまえは真島を目で追って、振り返る。
冷蔵庫をがさがさを漁っている姿がそこにあった。
何を探しているのだろう、もしかしたら他のものに目移りしているのかもしれない、昨日自分の為に買っておいた甘いものを見つけてしまったのかもしれない。
まるで同じ家に住んでいるかのような光景に、なまえは自然と左手の薬指が何かを恋しがっている様に感じた。
素朴な疑問が首を傾げている、それは今のなまえも同じだった。
そんな将来が来るかどうかなんて、まだ分からない。
でも、また彼が、今日と同じように寄り添ってくれるなら、薬指の恋しさなんて二の次で、なまえも寄り添っていたいと思った。
「なに、見とんのや。」
「あ、えっと、その、」
「ぼんやりしとらんと、さっさと食べんかい。そしたら、風呂や。」
「は、はい、ありがとうございます、」
咄嗟の真島の催促になまえは返事をした後、会話のようにその先を続けた。
「あの、今日はお風呂入っていってくれますか?」
その続きは意外だったようで、真島は目を丸くする。
「このご飯のお礼がしたくて、だから、お背中流してあげられたらって、」
「ええで。そう言う事なら、世話になったろやないか。」
「ほ、本当ですか…!」
でもアレやな、と呟いた真島の眉間には皺が寄っており、何かを考えているように見えた。
どうしました、と問えば、真島は冷蔵庫からビール缶を取り出し、なまえの真横に来た所で腰を屈めた。
「なまえはそん時、ただ背中流すだけなんか?」
「ええ、そうですけど、」
「そないまどろっこしい事なんてせぇへんで、二人いっぺんに風呂入ったらええんや。」
斜め上を行く予想外の真島の提案に、なまえは驚きに声を上げた。
驚きに口を開けっ放しにしている彼女と、表情を崩さず、寧ろ不敵な笑みさえ浮かべている彼は、手にした缶のプルトップを引っ張っている。
真横で喉仏が上下に動き、ごくりと喉を鳴らしながら、真島はそれを流し込む。
「なまえも疲れとんのやろ。せやったら、なあ?」
察せよ、この雰囲気を、と言いたそうに、笑みで細まる右目を見つめながら、なまえは視線をテーブル上、自分の手元へと戻した。
隣では相変わらず、酒を飲み続けている真島が居座っている。
なまえは思い出したかのように、残ったチャーハンを口にした。
妙な事を言う真島はいつも通りだが、口にしたこの料理だけは特別美味しくて仕方が無い。
だから、なまえは真島の提案に乗っても良いかもしれないとぼんやりと考えていた。
それはまだ言わないが、せめてこれを食べ切ってしまうまでは、秘密にしておこうと思った。
しかし、なまえは気付いていなかった。
隣の真島が何かを見透かしたかのような視線を投げかけている事を。
真島はまたごくりと喉を鳴らして、酒を体へと流し込んでいた。
20181021 おかえりと優しさの灯る部屋