ごそごそと何かがこの布団から抜け出るのを感じた。
起こされた訳では無いが、それでも自然と開いてしまう瞼が憎らしい。
ったく、なんだよ…とぼやきたくなる口を噤む、眠気の抜けた瞳は頭を動かさずに見える範囲内をさまよった。
その間違い探しは至って簡単で、目の前にぐしゃぐしゃになったタオルケットがある。
しかし、肝心の中身が無い、もぬけの殻である布団になまえが起きたのだと言うことを知らされた。
答え合わせをするように、台所から冷蔵庫の開く音と僅かな光が漏れた。
部屋に雪崩込む光に、錦山は不意に喉の乾きを覚えた。
強引に寝てしまう事も可能だったのだが、なまえがいるのなら、と一口、二口くらい水を飲もうと錦山も布団から出て行った。
ボトルの中の水がごぽごぽと流れていく音、開けっ放しの冷蔵庫が眩しい、探していた相手はその光の中で影になっていた。
控えめな喉仏が上下に動いている、相変わらず背は低い。
冷蔵庫を遮るまでもない影に近寄ってみても、まだこちらに気付く様子がない。
眠気を引き摺る重たい体で、なまえの隣に立ち、その同じく寝ぼけた頭を雑に触ってやろうと思っていた矢先。
気怠さが身を潜めた。
冷気の漂う寒色に染まった横顔が酷く無機質で、まるで生きているのかさえ分からなくなるほど、彼女の肌は蒼白だった。
水を飲むことに集中していたのだろう、眠るように閉じた瞼の膨らみや、寒色の中でも黒々とした光る睫毛に、その気が失せてしまった。
「…おはよ、」
「馬鹿、まだ夜中だっつーの、」
ゆっくりとその瞼を開き、ボトルから口を離す。
ん、と一言発するだけで、なまえは、はい、と手にしていたボトルをこちらへと差し出した。
冷ややかな無色透明が揺れる、キャップは付いていない。
「お水飲みたくなっちゃって、」
「そうかよ、まぁ、俺もそんなとこだな。」
「同じだね、」
「…なんだよ、別に大したことねえだろ。たまたまだよ、たまたま、」
「でも、きっとこんな時間に起きてるのって、私と錦山くんだけかも。」
「寝ぼけてんじゃねーよ、さっさと戻って寝てろ。」
錦山くんのこと、待ってる。と口にしたなまえの言葉に、胸の内に何かがじわりと溶けていくのを感じる。
それからすぐ、ボトルと密着していた口の端から冷たいものが流れているような気がして、それが自分のシャツを濡らすまで錦山はなまえを見ていた。
胸の内の暖かな何かを打ち消してしまう程、零してしまった水の量は多く、咄嗟にボトルをなまえに預けた。
しかし、気付いた時には遅く、白いシャツは既にうっすらと透けていて微かな肌色に染まり、肌に貼り付く感触もあまり気持ちの良いものでは無かった。
仕損じた事への舌打ちと感情を吐露させた言葉の後に、錦山は大きな溜息を吐いた。
なまえは受け取ったボトルを冷蔵庫へ戻すと、タオル取ってくるとだけ言い残し、その場を離れた。
濡れたシャツを摘んでは溜息をもう一つ挟み、なまえの向かっただろう脱衣所の方を見た。
視界を遮る前髪が邪魔だと髪を掻き上げる、なまえはまだ来ない。
がさがさと漁っている音が聞こえるものの、一向にこちらへやってくる様子がない。
おい、と声を掛ければ、今持ってくね、と声が返って来たものの、その後に聞こえてきた大きな鈍い物音に不安を抱いた。
「何やってんだよ、お前。」
反射的に錦山は脱衣所に向かった。
そして、そこで見たのは床に座り込むなまえの姿だった。
その場で身を屈め、なまえと同じ目線の高さに合わせれば、なまえは目を逸らすように左端を見ている。
話を聞けば、暗闇に足元が見えず、何かに躓き、転倒したとの事。
先程の心配が過剰なものだと理解すると、錦山は可愛い苛立ちを人差し指と親指に隠して目の前の頬を摘んだ。
「い、痛い、痛いよ、錦山くん…!」
「うるせぇ、俺の心配どうしてくれんだ。」
「タオル、あげるから、離して、」
「おう、俺はずっとこれを待ってたんだぞ。」
意地悪だと訴える指を離し、貼り付くシャツをさっと脱ぎ捨てた。
なまえから手渡された柔らかなタオルで胸元を拭っていく。
「わりぃ、これ洗っといてくれよ、」
「うん、錦山くんが水零すなんて滅多にないから、」
「また抓られてぇのか?」
慌てて首を横に振る様が面白くて、もう一度なまえの頬を摘む。
痛いと連呼するなまえの顔を存分に楽しんでから、わかったよ、とようやく一人遊びを止めた。
暫くは両頬を押さえていたなまえだったが、どこか悔しい思いがあったのだろう。
今度は、と言わんばかりに、その小さな両手を錦山目掛けて伸ばした。
錦山はあしらう様に手を払い除ける、更にやり返そうとなまえが思い切り飛び付いた。
ごちん、と鈍い音が聞こえた。
錦山はそれを直に聞き、なまえは慌てふためいた顔で、ごめんね、と口走っている。
視界に脱衣所の天井が映った。
「…やりやがったな、なまえ。」
「あ、錦山くん、…ごめ、」
「いいや、駄目だ。」
なまえの言葉を遮りながら、自分の上にいるなまえの脇腹に指先を忍ばせ、あくまでも優しく指先だけで引っ掻くように触れた。
再び小さな悲鳴が上がる、その後は擽ったさに身を捩らせ、錦山の上で暴れている。
「ほら、ごめんなさい、だろ?」
「ご、ごめ、…!」
「ちゃんと言えっての、」
「ごめんなさ、」
「笑ってねぇで、さっさと言ったらどうなんだ、楽になれるぜ、」
笑い声に紛れて、ごめんなさい、と遂に口にしたなまえをからかうのをやめ、錦山はまだ自身の上に寝そべるなまえの髪をぐしゃぐしゃに撫で上げた。
なまえはそれが終わるとゆっくりと体を起こし、床に腰を下ろした。
寝よっか、と落ち着いた声に、そうだな、と錦山は横たわっていた体を起こした。
数グラム身軽になった体で座り込んでいるなまえの手を取り、立ち上がらせて、二人は寝ていた布団へと戻っていく。
「上着なくていいの?」
「かまわねぇよ、それにこっちの方が楽だしな、」
「お腹壊しちゃうよ、」
「それはお前だけだろ、」
先に布団に寝そべったのは錦山の方だった。
大の字に手足を伸ばし、頭の後ろで腕を組む。
なまえもそれに習って横たわろうとしていたが、布団に座り込んでからそのまま横にならなかった。
それを疑問に思い、寝ねえのか?と問えば、うん…、と複雑そうな顔をして、錦山に背を向けるように寝そべった。
「…なんだよ、まだ怒ってんのか、」
「ううん、そうじゃ、ないけど、」
「じゃあ、なんだよ、」
沈黙、間を置いて、振り返る。
なまえはどこか遠慮がちに口を開いた。
「…錦山くん、なんか色っぽいね、」
はぁ?と自分でも素っ頓狂な声を上げてしまった事にも驚きだが、なまえがたった今口にした言葉の方が信じ難く、驚きを隠せない。
「男に向かって言う言葉じゃねぇだろ、」
「そうかな…、でも、なんか、」
「じゃあ、今からやるか?」
先程とは違い、ワントーン低い声でなまえに呼び掛けた。
ふざけている様子も何かに焦がれている様子も無い、至って落ち着いている、そんな声で。
なまえは、え、と漏らしてから、停止している。
目の慣れた薄暗がりではその顔色を伺えない、それが残念だと思った。
余裕を気取る、錦山にとってそれは慣れた技だった。
なまえには到底出来ないものであるが、彼女はそれでいい。
馬鹿が付くほど素直ななまえが好きだと、とっくの昔に気付いていたからだ。
「丁度、場所も場所だしよ、俺はかまわねぇ。」
「いや、それは、…さっき寝るって、」
「誘ってきたのはどっちだよ、色っぽいなんて回りくどい事言いやがって。」
「でも、錦山くん…、」
「俺はまだ若ぇんだ、少しくらい寝なくても何ら差し支えがねえ。」
「わ、私は、」
「付き合えよ、目ぇ覚めちまった、」
なまえは言い合いには勝てない女だ。
優しいと言うのか、そこまで頭が回らないだけなのかは分からないが、無闇矢鱈に頭を使う事も、もう手持ちの無い気を使わなくてもいい。
自然体でいられるし、何よりこうして見つめ返すその瞳の輝きを、自分だけのものに出来るのが気に入っていた。
何を思ったのか、なまえは数秒錦山を見つめてから、頭を縦に振った。
その仕草さえもある程度は予想出来ていたが、改めて目前でそうされると気取った筈の余裕はいつの間にか無くなっていた。
こっち来いよ、と酷く何かを焦げさせた声音で、錦山はなまえを呼んだ。
20180902 夜中にふたりで戯れる