これから埋まる距離のこと


「……咲也くん、どうしてるかな」

キッチンで明日の差し入れの仕込みをしながら、そう呟いた。
彼の家庭や、どうして演劇にあこがれたのか……。一年前、彼があの河原で教えてくれた。

でも、彼は不必要に不幸ぶったりしない、強い子だから。
きっと真澄くんも、監督さんも、……たぶん誰にも、そんなことは言ってないんだろう。

むしろ、満ち足りた顔をして、みんなを安心させて――

「……ああー、無理。心配。まだ起きてるかな……」

LIMEで『まだ起きてる?』とだけメッセージを送る。いったんスマホはポケットにしまって、作っていたレモン漬けやスポドリを完成させてしまい、それぞれきちんと決まった場所に仕舞う。

……部屋の明かりがまだついてるか、それだけでも確認できたら。そう思って、私は寮の方へ移動した。

「まだ12時過ぎてはないけどなぁ……」

スマホをもう一度開いたけれど、返信はなし。もう疲れて寝てしまったのかな。それとも……。

「……あれ」

寮に行こうと思って外に出たら、中庭に人影が。
監督と、咲也くんだ。

会話の内容を聞こうと思って、耳を澄ませると……すぐに何の話をしているのか理解できた。――家の話と、咲也くんが劇団に入りたいと思った理由! 彼は、いま、それを打ち明けているのだ。

「……『The Show must go on』ショーは終わらない」

会話の中で、監督さんがそう言った。
ハッとさせられるような、意思のある言葉のように思えた。そしてこれは、確か。

「咲也くんの好きなことわざ……」

ふ、と息がこぼれるように、自然と笑みが出た。きっとこの感情に名前を付けるなら、安心感だ。もう、心配する必要はないんだ……そう思わせてくれる雰囲気が、あの向こうにいる咲也くんにはあった。

話はもう少し続いて、咲也くんはどうしても殺陣をやりたいと言っていた。頑固なところも、彼らしい。

――頑固といえば。

「……真澄くん」

囁くようにその名前を呼べば、少しの足音が響いたのち……くい、と私のジャージの袖が引っ張られた。……彼もまた、この光景をこっそり見ていたのは、気づいていた。

振り返って彼を見る。
無言で私を見つめる彼は、少ししょんぼりした空気をまとっていた。うん、貴方が酷い人だとは思っていないから……そこは心配しないでほしい。

「よしよし」
「……撫でるな」
「撫でてほしそうだった」
「……」
「真澄くんは知らなかっただけだよ」
「……うん」

ふ、と真澄くんも、さっきの私のように笑った。心配という二文字は彼の表情から払しょくされたようで、何より。
なんて油断してた私の肩に、突然ぽん! と誰かの両手が置かれた。

「壁にミミー、障子にメアリー、背後にシトロンネ」
「人が多い」
「シトロンさん……!? びっくりしたぁ」
「二人とも、わが国では、盗み聞きは早口言葉300回の計で罰せられるヨ」

いつもの悪戯っぽい、けれどどこか大人のやさしさを持った、穏やかな声でシトロンさんがそう言った。

「……アンタも同罪だろ」
「オー、即隠滅ネ。マスミも、チヨも、共犯だヨ」
「ですね」

シトロンさんの方を振り返って笑う。なんだかんだ、私もシトロンさんも、真澄くんのことが心配だったらしい。末っ子が可愛い気持ちは、よくわかる。

「……アイツのこと、何も知らなかった」
「これから、たくさん知っていくヨ。お互い」
「……」

ぎゅ、と手を掴まれる。よしよし、と逆側の手で、優しくその手を撫でてあげた。

きっと今日は、みんなちゃんと眠れるね。



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