日々に嫌気が差していた。全ては実家の家族のため、住み込みで働いているがここでの主従関係はあまりにも殺伐としていた。酷く理不尽な理由から主人に鞭を振るわれ、使用人はその裏で「いつか復讐してやる」と決意を固めるのである。
そして小さな主は今日も私という存在をその傲慢で貶める。
「俺がいつそんなことを頼んだ」
「で、ですが」
刹那、頭から冷たいものを被る。彼が私に向けて花瓶の水をぶち撒けたらしい。滴る雫が冷たくて、悔しくて。鼻で嗤うこの少年が憎くて堪らない。何故このような目に遭わなければならないのか。
「雇われた犬の分際で俺に逆らうつもりか?」
「す、すみません…」
しかし口答えは許されない。私の身分は単なるメイドであり、反論の一つでも唱えれば暇を出されることは目に見えていた。故に耐え忍ぶ他なかった。いつか、この貴族達が没落するその日まで。
そんな私の願いが通じたのか、旦那様は本当に没落の道を歩んだ。彼こそ情が深かったが商才はなかった。それ故、この屋敷の資金が底尽きるのも目に見えていた。奥様はそんな旦那様に愛想を尽かせて屋敷を出て行き、旦那様も気付いた時には既に息を引き取っていた。
「人を良いように嬲ってきた罰だ。……思い知れ」
ようやく復讐のチャンスを掴んだ使用人達は屋敷の金品を荒らし、今までされてきた暴虐をその手で、足で返した。私は黙って見ていることしか出来なかった。一生残るような傷を幾つも付けられたというのに、悪魔に豹変した同僚達が恐ろしくて加担出来なかった。
「なまえ……」
小綺麗なお洋服も土埃に塗れ、至る所から血を流す小さな主。初めて名を呼ばれたことに驚きつつ、私は反射的に逃げ出した。手を差し伸べる恩もない。助けたところでまた痛めつけられる。仄暗い蒼は間違いなく私を射抜いていた。
「坊ちゃん、」
十数年の月日を経て、私は戻ってきてしまった。あの日、彼を見殺しにした。因果応報、当然の報いだと思っていた。されど、全てを失った彼の表情を忘れることが出来なかった。きっと彼は野垂れ死んでしまっただろう。あんなにも幼い子供だったというのに、あの時の私は慈悲を持ち合わせていなかった。
「ごめんなさい」
今更詫びたところで何の償いにもなりはしないけれど。ただ、罪悪感を取り除く免罪符が欲しかった。
「それは何に対しての謝罪だ?」
嘘だ、そんなわけがない。
「何を驚く必要がある。悔いていたのだろう?あの日、俺の前から逃げた自分に」
何故、どうして。
「安心しろ、俺は生きている。辛うじてだが、な」
子供をあやすように甘く囁いているというのに、その裏に悍ましい狂気を感じる。安心しろだなんて、皮肉めいた言い回しをしなくても私には分かる。彼は、地獄から這い上がってきたのだ。
「もう何も懺悔する必要はない」
「こないで…!」
「お前の主人はここにいるのだからな」
溢れるのは決して嬉し涙ではない。涙を拭う指の冷たさはいつか被せられた水の冷たさによく似ていて。微笑んだ際に唇の隙間から見える鋭い牙が彼はもうこの世の者ではないのだと教えてくれた。
「また俺に尽くしてくれるだろう?なまえ」
首筋を穿つ牙に迸る熱を最後に私は――。
20170221
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