「君に、好意を抱いている」


 ロドス艦体が天災被害が予測されていた地帯から脱するルートの算出、安定した航路の確定をしたのは、その日の午前中の出来事であった。十二時に差し掛かる頃には各所部門への連絡と報告の全てが滞りなく行われ、艦内は通常業務と運航に切り替わっている。
 礫のような、散弾のような鋭い雨の中を抜けたからだろう。博士が通路の窓際を見ると、埃や塵、源石の粒子が見当たらない空は澄んで晴れ渡っていた。まだ水溜りの残る甲板には鏡のように空の青さが反射しており、その近くで何人かのオペレーターが機材の組み立てを行なっていた。艦隊外部に取り付けられている計測器と形状は異なるが、おそらくは大気中の成分の再分析を行うためのものだろう。
 博士は目の前の人物と向き直った。通路に沿うように作られた窓からは、幼い子供を午睡に誘うような暖かい日が差している。薄黄色のそれが青年の髪や肌を白く照らし、輪郭をぼんやりと光らせていた。
 青年は博士の言葉を聞いて、「はあ」と彼らしくもなく曖昧な返事をした。そのたったふた文字に、博士の言動に対する困惑と疑問が十二分に含まれていることを肌で感じ取る。「好意ですか。それはどのような?」博士は続ける。「上司部下の関係として君を評価し、好ましく思っていることは前提に」ロドスのドクターとラテラーノ公証人役場法定執行人という、互いの立場に囚われない親密な交際を──堅苦しくくどい文言を端的にいえば「私と個人的な付き合いをしてほしい」それがドクターからイグゼキュターへ告げた内容だった。
 時と場所を選んだ告白、のつもりだった。ひと目はない明るい時間帯、華美ではないが博士から青年への好意を可視化したような花束と、策略以外で頭を回し、拙いなりに言葉を揃えた。
「お断りさせていただきます」
 そしてその結果が、これである。自分なりに積み重ね準備したものがこうも、一発の言葉の砲撃により粉砕されることは。予想をしていなかったわけではない。むしろ想定の範囲内とも呼べる結果だった。
 しかしあまりにもすっぽりと収まり良く予想通りに断られてしまって、博士は言葉と思考の両方を失いそうになった。明るかった日差しが翳ったように見えて、指先から緩やかに血の気が引いていくのを、他人事のように感じていた。
 博士は両の手に祈るように握っていた小さな花束──パフューマーが見繕ってくれた、黄色や白の花が並ぶそれを持ち直す。その手の内側、人差し指と中指の間が手汗でじんわり湿っていく。こめかみがドクドクと痛んだ。短く息を吸い込んだ。
「断る理由を伺っても?」
 博士が問いかけると、青年は一度口を閉ざして逡巡する様子を見せた。その伏せられた瞳の温度を窺うことは叶わなかった。
 それでも、残酷なことが目の前で起きていても、博士にとってこの青年は美しく見えた。ゆっくりと冷めていくのは体温と思考、その両方だった。熱に浮かされていようがそうじゃなかろうが、彼は初めからうつくしい。きっとそこに惹かれたから、自分は花束を持ってここに立っているのだ。本当は今すぐに座り込みたい、あるいは逃げ出してしまいたい気持ちが脊髄をじわじわと蝕んでいたとしても。
「私はロドスとの契約により滞在している公証人役場の一職員に過ぎません」
「…そうだね。だが君から手渡された契約書には、上司部下の交際を禁ずると言う規約はなかったはずだ」
「確かにその旨の記載はありませんが、だからといって貴方は私に交際を強要することもできません。それはハラスメントに抵触します」
「うん。私はあくまでも君からの同意を得たうえで、交際関係を構築することを想定していた」
 博士は青年へ差し出していた花束をゆっくりと下げていく。自分が食い下がることに関して流石の青年も煩わしい、と感じたのかもしれない。彼の眉間に浅く皺が寄せられたのを博士は見逃さなかった。それを見落としていれば、もう少し気楽かつ諦めよくこの場を離れることができていたのかもしれなかった。
「ドクター」
 名前、ではない。役職の呼称だ、業務上必要なものだ。しかしそれはこの世界において博士のことを指していた。それだけがいまは救いのようにも感じたし、同時に博士を苦しめもしている。
 別に首を絞められているわけではない。それなのに呼吸がしづらくなる状態が不思議だった。そして聴覚が狭まっていくなかで、青年の声だけがはっきり聞き取れてしまった。
「──貴方から寄せられる好意も、個人的な付き合いを望むそのお気持ちも、私には一切の理解ができないのです」
 一瞬、あらゆるものの時の流れが止まったように思えた。自分の心臓の鼓動が聞こえなくなったので意識を集中すると、やはりそれは脈打ってはいるのだが、音として感じ取れなくなっていた。
「…なるほど」
 目の前の青年は、悪意を持って言っているわけではない。彼は本当に、わからないだけだ。自身の感情に疎いわけではなく、他者の感情の動きが理解しがたいだけだ。
 博士が自分に好意を寄せている、ということは客観的な事実として青年はわかっているようだった。だが博士のそれがどういった思考回路に接続されて青年への好意へと至っているのか。
 博士にはそれを説明する義務があったのかもしれない。説明をしたにせよ怠ったにせよ、現在に至れば答えは変わらなかったとも思う。
「もうよろしいでしょうか。これから経理部門へ向かわなくてはならないのですが」
「うん。すまない、時間を取らせたね」
「いえ」
 青年は博士の傍を通り過ぎて行った。彼の迷いない足取りによってすれ違いざま小さな風が生じ、陽に当てられた埃がきらきらと光る。博士は思わず目を細めた。
 その光景には眼球の裏側、神経や細かな血管との癒着部分を焼いていくような眩さがあった。なにもかもがきれいで、いたたまれない気持ちにさせられた。
 持った花束を手放すこともできずに、半ば立ち尽くしていたドクターへ声を掛けたのは、ひとりのオペレーターだった。甲板で機材を組み立てていたうちのひとりで、その仕事が終わったらしい。片腕に三脚を抱えていた彼は他のオペレーターたちと別れて、博士のもとへ向かってきたようだった。
 リーベリの男は肩からは重量がありそうな鞄を提げていた。中身は観測装置に関する機材だろう。彼は博士とその手元にある花束を見比べて、「どうやら」と続ける。
「彼への告白は失敗したようですね」
「まあね。聞こえてたかな」
「さすがに会話内容を聞き取るまでは……ですが、甲板からおふたりの姿が見えていないわけではなかったので」
 凡そのことは察せますと口にしつつ、彼は花束へ視線を落とした。「このあとは、どうなさるおつもりですか」男の薄明を思わせるような長い髪が、彼自身の動きに合わせてさらりと揺れた。その見目に反し、乾いた砂地の匂いがする。サルゴンの水気のない流砂が、肌にまで染みついているような。
 博士は肩を竦める。
「どうもしないわけではないけど、そうだな。できるだけ普段通り、に振る舞う予定ではあるけれど」
 男はそれを聞いて、ゆっくりと目を瞬いた。
「私が聞きたかったのは傷心気味のあなた様のお気持ちもそうではありますが、」
 白い手袋に覆われた指先は、博士の持つ花束を指差した。「それをどうするおつもりで」博士は僅かに俯き、手元で息を潜める切花の寄せ集めを見つめる。
「捨ててしまうのは、ラナにも花にも失礼だからな。しばらくは部屋に飾っておこうと思う」
「あの書類が積まれたテーブルのどこにそれを置かれるのです?」

「君もたまに私と同等か、あるいはそれ以上に酷く散らかすじゃないか。自分のことを棚に上げるのは良くないな」
 嫌味に聞こえるようで実のところ、博士と男にとってこれは他愛ないやりとりのうちのひとつに過ぎない。男はそれを経てふふ、と愉快げに笑った。「ではドクター」下瞼の薄い肉が盛り上がって目が細まり、口元は弧を描いている。
「よろしければ一輪、私に頂けますか」
「……君の要望に応えてやりたい気持ちはあるが…」
 これは渡せない、と博士は笑う。なぜ、と興味を滲ませて返された。
「根本を強く握りすぎてしまった。道管が潰れてしまって、ひとに渡せるような状態じゃない。それに…」
「それに?」
「これは君に宛てたものではないからな。花が欲しければ温室に行くと良い。花を分けてもらえる」
 男はそうではないという旨の返事をする。男が言いたいことは博士もわかっていた。
「私が欲しているのは、あなた様が両手で持つそれのほんの一輪ですよ」
 博士はすまない、と一言告げる。男の口調にはやや戯れが混じっていた。なので博士もできるだけ戯けながら、しかし心根は真面目に努めた。
「これは私から彼へ宛てたものだから、一輪も渡すことはできない」
 男は二、三瞬いてから、潜めるような息を吐いて微笑んだ。「ええ、存じております」と。


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掌を反す