銃声が聞こえた。
 叫ぶように、祈るように、応えるように。


 少年は書き物をしていた手を止め、ふいに顔を上げた。固まっていた首や肩の筋が動きに合わせて鈍く痛んだが、それらは慢性的なものだったので気に留めることはなかった。
 重みのある古い椅子は、幼い体躯の少年が動かすためには手を使わなくてはならなかった。持っていたペンを置いてから立ち上がる。周辺には書き損じた紙片が散らかっていたが、少年はそれを躊躇なく踏みつけた。カーテンが引かれた窓の前に立つ。
 今は夜だ。深夜帯ということもあってカーテンを閉め切っているが、少年はその間に細枝のような人差し指を差し込んだ。
 指二本分ほどカーテンを開く。わずかな隙間ではあるが、片目で景色を見るには問題ない。七階の客室から、そっと雪の積もった街を見下ろす。空が黒に塗りつぶされた景色の中で、街灯に照らされた雪の白がぼうっと浮いていた。
 客室の明かりがホテル前の歩道に小さな切れ込みを入れる。歩道の上、ホテルスタッフがスコップ片手に懸命に雪を掻いている姿が見える。毎晩零時から二時間ほど業者によって除雪の作業が行われているはずなのだが、どうやら今日は来ないらしい。
 少年はそうしてしばらくの間、窓の外を眺めていた。カーテンによって防がれていた冷気が指先をじわじわと食んでいく。外に変化がないことを確かめて、おもむろにその手を離した。厚みのある生地で作られたカーテンはほんの少し揺れただけで、重みですぐに静止する。
 幻聴か何かだったのかもしれない。そう思い椅子に座り直し、ペンを執る。レポート用紙の上にペン先を置くが、先端がダマになって滲むだけでそこから動く気配はない。黒い滲みがじわじわと広がっていく。それがやがて大きな穴になって思考を食われる前に、少年はペンを放った。
 背もたれに身体を預けて天井を見ていたその時、机の上で携帯端末が振動する。唸るようなそれを手に取ると、画面にはこの端末に唯一登録されている人物の番号が表示されていた。名前を見るたびに倦怠感に似たようなものを感じて、腹の底が重くなる。それでも応答しない、というのは後々面倒なことになると知っていた。以前応答しなかったときの折檻を思い出しながらボタンをタップし、冷たい端末を耳に当てる。
「はい」
 少年が気怠さを隠さない声で出ると、電話の向こうからいつ聞いても変わらない男性の声が聞こえてきた。ちゃんと薬は飲んだのか、と穏やかな声が聞こえてくる。少年は錠剤が押し出されてゴミになったアルミ包装を然るべき場所へ捨てながら、「ええ」と答えた。
 電話の相手──少年の父親、とされる男性は最悪を想像したのだろう。嘆くように言葉を口にする。「薬を一日でも飲み忘れてしまえば、お前は…」少年はそれを、どこか他人事のように聞いていた。凍てついた死人のような顔色を変えることなく、「わかっています」と抑揚のない声で返した。
 それから、父親は妻とされる女性のことを少年へと話した。少年の母親と称される女性はどうやら席を外しているようで電話を代わることはなかったが、父親は「大丈夫だ」という。
「私たちの仕事が上手く行けば、春にはお前を迎えに行くことができる」
「はい」
 少年は自らの首に装着されている、首輪のような医療器具を摩った。薬を飲む時間になるとアラームが鳴るこれは、入浴などの決められた時間以外に外せない仕組みになっている。その設定や器具の操作ができる端末を持っているのは、電話の向こうにいる父親だ。
 だから、それまでの辛抱だと彼が言う。そのホテルは安全だし、従業員は私たちにとても協力的だ。だから外には出ず、お前は私たちの帰りを待っているようにと。
「わかりました」
 少年の声には抑揚がなかったが、親とされる男性は少年の欠落性をよく理解していたので、肯定の旨が返されただけ安心したのだろう。それから短いやりとりが二、三続いて電話が切られる。
 少年は携帯端末の消えた画面をしばらく見つめていたが、それを伏せるように置いた。息苦しさを感じながら立ち上がり、ハンガーに掛かっていた厚ぼったいコートを羽織る。それから自分の身の丈よりも高いクローゼットの扉を開けて、中に防寒具の類がないかを確かめる。
 クローゼットに掛かっている衣類はほとんどが大人の男女のものばかりだったが、手前に掛かっている大人用のマフラーの端をつまむと、それを引っ張って足元へ落とした。軽く埃を叩いてから、大判のそれを自らの頭へぐるぐると巻きつける。
 長い布地をフードのように目深に被り、口元を覆う。余った布地は肩へ掛かるようにすると、見た目は不恰好ではあったが暖かくはあった。
 玄関先に置かれているルームキーは、薄ら埃が積もっていた。コートの袖で汚れを拭ってから上着のポケットに入れ、部屋を出る。歩き出すも、その足音は全てカーペットが吸い取っていく。毛羽立ったカーペットは少年の足の形に小さく凹んだが、それが足あとになることはなかった。
 深夜となると明かりは最低限に絞られているようだった。客室のドアばかりで窓のない閉塞的な通路は、呼吸をすると乾いた空気が流れていた。換気や空調のモーター音ばかりが静かに作動するその道を真っ直ぐに進み、エレベーターを使って一階のエントランスへと向かう。
 フロントは無人だった。しかしその奥にあるスタッフルームから、寂れたような音楽が流れていた。テレビか、この時間帯ではラジオなのかもしれない。昼間は軍部の規制により流れてくる情報が限られている。それらの規制が緩むのが、ちょうど今の時間帯だった。
 大扉の横にある夜間用出入り口のドアノブはひどく冷え切っている。そして傘立てには数本の傘があった。
 少年はそこから、一本の黒い傘を取る。ドアノブを捻ると、扉が普段よりも重く感じた。風が強く吹いてきて、少年の髪が揺れる。息を吸い込むと、肺の中で溜まっていたホテルの空気が自然に出ていった。
 白い息を吐き出しながら外へ出た少年に、雪かきをしていたホテルスタッフはスコップを動かしていた手をとめた。軽く会釈されるが、少年はそれに黙って目を伏せて返すだけだった。
「こんな時間にどこへ?」
「散歩に。両親からの許可は得ています」
「しかしこんな大雪ですよ。危ないんじゃあないですか」
「しかしいまは、私が外に出ても唯一安全な時間帯なんです」
 ホテルスタッフらしい初老の男性は夜間警備員として顔だけは知っている人物だった。雪掻きをして身体を動かしているからだろう、年齢の割に若く見える顔には汗が滲んでいる。「いつもの除雪車は」「それが故障しちまったらしくて」彼は首に巻かれたマフラーの余りで汗を拭い、路傍に積まれた雪の中へスコップを突き刺した。除雪車は幸い一日あれば直せる程度だったので、明日にはまた通常業務に戻れるという。
 これから一時間ほど休憩をとるというその男性に、上辺だけの労いの言葉を掛ける。30分ほどで戻ることを告げて、傘の留め具を解いた。幼い子供ひとりが入るには、その傘には十分な広さがある。戻った時にはこの傘を傘立ての一番端に置いておけばいいだろう。
「そういえば、先ほど何か聞こえませんでしたか?」
「たとえば、どんな?」
「銃声の、ような」
「銃声? いやあ、まさか。ずっと静かでしたよ」
 それにここは北方の戦線からは外れた場所ですからね、他と比べて平和ですよ。彼は肩を竦める仕草をした。
 少年は言葉で答えずに、もう一度目を伏せた。傘を差して、雪が掻かれた石畳の上を踏みしめるようにゆっくりと歩き始めた。


 この街は安全地帯へ逃れようとする富裕層と軍の上流階級者へ向けた宿泊施設が点在しており、少年が身を置いているホテルもそのうちのひとつだった。
 深夜ではあるが遊戯店や飲食店はまだ灯りが点いており、窓からは円テーブルを囲んでカードやサイコロゲームに興じる軍人や貴族たちの姿が見える。窓ガラスをコツコツと叩くような喧騒が聞こえた。歓声と落胆が寄せては返して引いていくその波打ち際を適当に歩いていくと、住宅街の外れに出る。
 そうなると、先程の喧騒は嘘のように消えてしまった。耳の奥が痛くなるほど周囲は静かで、自らの拍動や雪を踏む動きで嫌というほどに生を理解させられる。街灯に照らされる雪の白は目に痛く、少年は無意識に足元を見ていた。
 冬と雪というのはどこもかしこも冷たくなって、やがて自分が死体と遜色ないものに変わると思っていたときがあった。しかしこの内側では血が巡っていて、それは身体を冷やし切らないように燃焼を繰り返しているし、痩せ細った筋肉でもごうごうと生きる音を立てている。
 少年はこれを自分で止めることができなかった。レコーダーの停止ボタンのように気軽に音を止められたのなら良かったのだが、残念なことにそのボタンが取り外されてしまっているような状態だった。マフラーの布地越しに首に触れると、医療器具の硬い感触が伝わる。
 少年が足を止めたのは、小さな公園の入り口だった。以前ここを両親と通った時は昼間で、そのときは何人か自分よりも幼い子供が遊んでいたのを覚えている。
 誰もいるはずはないのだが、幻聴の正体がここにあるような気がした。閉め切ったあの部屋から聞こえるわけがない。ペッローやフェリーンのように耳が良い種族でもないのに、それでも。
 雪が僅かに積もった傘を傾け、公園のなかを見渡す。動物を模した遊具はみな頭に雪を被り、その傍には誰かが作ったのだろう不恰好な雪の塊があった。
 ふと。視界の端になにかが光る。
 街灯の近くに置かれたベンチに、人の姿を見つけた。それは遠目から見れば雪の塊と遜色ないほど白く、数分経ってもその場から動く気配がない。
 少年は静かに歩んで、ベンチに近づいた。
 そこに座っていたのは、浮浪者と呼ぶには身綺麗な男だった。まとっている衣服はこの季節にしては薄着であったことは奇妙ではあるが、問いかけるほどでもないのかもしれない。
 頭や肩に数センチの雪が積もっていて、周囲に彼のものらしい足跡が見当たらない。雪が降る前にここに座っていたにせよ不自然だ。
 男の姿は一見すると、打ち捨てられて永い時を経た置物のようだった。しかしこの公園にこんな、危うく脆そうなものは存在しない。もしそんなものが随分前からあったのだとして、ここにずっと在り続けることは難しい。
 少年は差したままの傘を足元へ置き、男の頭や肩に積もる雪を払った。彼の傷んだ髪や荒れた唇はどれも冷たく、触れるたびに少年の熱が吸い取られていくようだ。冷え切った青い皮膚の僅かな弾力とその下を巡る脈の感触は、男が死人ではないということを示している。そのことに僅かに驚く自分がいた。
 とくとくと一定間隔で拍動を刻むそれの乱れがないことを確認してから、少年は凍っている男の頬へ、包むように触れた。自らの意志で人肌にほとんど触れたことがない少年にとって、それは直に心臓に触れるような奇妙な錯覚を描かせる。
 男に動物的な種族の耳や尾は見当たらず、角や光る羽も生えてはいない。外見的に近しいのはリーベリだろうか、けれど男の耳殻や髪に触れても、羽らしい固い感触を確かめることはできなかった。
 そうして少年が男の耳に触れていると、彼の瞼が僅かに震えた。意識が浮上した、のだろうか。少年は男の耳からそっと手を引いて様子を窺う。無意識に息を潜めていた。
 ゆっくりと開いた男の瞳はくすんでいて、灰色に見えた。それが数度瞬いて、目の前にいる少年の姿を捉える。
「……」
 男の、色の悪い唇から吐き出された息は白かった。目が覚めたと同時に、彼のなかで止まっていた時間が動き出したようだった。人形のような青年の表情が、少年の姿を視認して僅かに大きく開いた。
 少年は男の反応を見て、ようやくこの寒さに気づいたのだと解釈した。温かい飲み物でもあればよかったのかもしれないが、いまの少年はそれを買うための金銭を持ち歩いていない。
 巻いていたマフラーの結び目を解いて、大人用のそれを男の首に掛ける。子供である自分とは違い、巻いても余分な布地が出ることはなかった。これは初めから大人のために存在していたのだと訴えられているような気持ちすらしてくる。弱い力でマフラーを結ばれ、それは男の首元を隠した。
 少年は屈んで傘を持つと、彼の頭上にそれを傾けた。雪を払い落としたとはいえ、今更傘を差し出すことは無意味であり手遅れではあったが。
 それでも、なにもないよりはマシだと。
「……銃声が、」
 少年は冷え切った指先で、男の目元を撫でた。彼はなにも発さず、あるいは発せないのか。言葉を紡ぐことなく、静かに少年を見上げている。
「聞こえませんでしたか」
 少年はそう、一方的に話す。声は空気を揺らして伝えるものだったが、少年のそれは雪の静寂にいつ掻き消されてもおかしくないような細さだった。
 そもそも言葉が通じているのかも、怪しい。男はこの地域ではあまり見かけることがない髪色をしていた。彼は異国から来た者なのかもしれない。
 それでも少年は誰かに問いたかったし、答えを欲していた。この雪中にいたのは、少年の目の前にいたのは彼だけだ。
 引き金を引いて、内側が爆ぜるような叫びを。
 確かに聞いたのだ、祈るような音を。
 自分じゃなくても、きっとそれに応えられる者はたくさんいる。けれどもし。
 自分以外があの音を聞いていなければ、誰がそれに応えてやれるんだろう。
 男は表情を動かすことなく黙したまま少年を見つめ、おもむろにその手を取った。彼が自発的に動いたということが、ますますその存在の未知さに拍車を掛ける。不自然だからこそ人形である、と言われたほうがまだ納得できていたのだろうか。
 男の手はやはり、冷たい。彼はそのまま余分な肉を削いだような少年の手のひらに、自らの指先を置く。
 白い蝋のような、人差し指だった。体温で溶けた雪の水滴が皺を辿り、浅い湖のようになって濡れている手のひら。そこを弱い力で叩かれる。
 少年は不規則なその動きに対して、浅く口を開いた。その隙間からは言葉の代わりに息が烟る。
 男の人差し指と中指の間を辿って、彼の手を握りしめた。
 それで少しでも、この男に自分の熱が分け与えられれば良いと思った。


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掌を反す