疲れた時には寄り添う癒しを


 目が覚めた。
微睡みに沈んでいた意識を持ち上げて、緩慢に両の目蓋を持ち上げる。
 今、自分は何処に居て、どうあるのか。
ゆるゆると頭をもたげて、首を僅かに横に動かし天井から室内を見渡す。
 常夜灯以外の明かりを落としていた部屋は当然薄暗く、視界があまり利かない。
…が、元より夜目の利く自分には関係の無い事だった。
 緩やかに思考の覚醒を待って伸びをする。
すると、己のすぐ側…自分以外の何者かの温もりを感じて、其方に意識を向け、腕を放った方角を見る。

 視線を向けた先には、自身のサーヴァントとしてカルデアに召喚されたアサシンであるジャック・ザ・リッパ―が己にひっ付くようにして眠りに就いていた。
いつの間に潜り込んで来ていたのか。
 よくある事ではあるが、時にして少女は自身を実の母親のように呼び慕い、夜な夜な人が深く眠り込んでいる間に静かに部屋へ忍び込み、こうして勝手に一緒にベッドで寝ているのである。
もう慣れた事だし、特に口出しする事でもなし、拒絶する理由も無いので放っているままだ。
 未だ熟睡している様子の彼女を起こさないようにそぉっと身を起こし、その場を抜け出し、寝起きのふらつく足取りで洗面所のある場所へと向かった。

 まだ所々の部屋しか明かりの点いていない部屋の前々を通り過ぎて行き、目的地に辿り着くと迷わず洗面所の蛇口を捻り水を出した。
バシャバシャと控えめな音を立てて軽く顔を洗い、洗顔を済ます。
冷たい水に触れて目が覚めてきたところで水を止め、持って来ていたタオルで顔を拭く。
 徐に、正面に設置された鏡に映る自分を見つめた。


(酷い顔だな………不細工な顔だ)


 取れ切れていない躰に残る倦怠感に、目の縁に黒く滲む隈。
眠った筈なのに眠れていない気がして、またベッドに戻って惰眠を貪りたい気分だった。
だが、今日の自分にその予定は組み込まれていない。
僅かでも時間的に睡眠を取れたのなら、其れは一応は眠った…という事になるのだろう。
そう思い込む事にして、癖付いたように多少の無理を強いる方向性で今日の物事を考えていく。
 さて、まだ時間としては起きるのに少し早いかもしれないが…サーヴァント達はそもそも眠る事を必要としないものなので、自身が早く起きようが起きまいが関係無いだろう。

 鏡の中の自分の斜め下方を見つめながらタオルを顔に当てたまま思考を飛ばしていると、不意に鏡の中…視界の端に誰かの影が映った。


「――お早い起床ですね。…おはようございます、マスター。お加減が優れないようですが…どういたしました?」
「……シロウ、か…」
「はい。貴女のサーヴァント、天草四郎時貞ですよ。あまりよく眠れていなかったようですね…。目の下に隈が出来ています。夢見でも悪かったのですか?」


 いつから其処に居たのか、全く気配を感じなかったが…まぁ、其れは良しとして。

 彼は、此方を窺い見るようにして入口の壁に凭れ見つめていた。
分かっていて敢えてわざわざ問うてくるとは、相変わらず食えない男である。


「別に、そんなんじゃないから…心配は無用だ。コレは…単なる疲れで沁み付いたようなものさね。お前が気にするような事じゃないよ」
「…しかし、マスターである貴女の身を案じるのも、貴女の従者としての務めですから。心配くらいさせてください」
「……はぁ…っ、頑固者め。好きにしな…」
「はい。では、貴女の言う通り、好きにさせてもらいますね」


 天草四郎という男は、にこやかな優男のような笑みを浮かべているが、実のところ…そんな生易しい輩ではない。
第三次聖杯戦争から生き残り、受肉した後も60年間もの長き間人類全てを救済しようと執着した人物だ。
 しかし、彼は既に故人であり、現世に生を受けていない過去の偉人である。
その身はエーテルで出来た英霊、座に本体を置き、その身が朽ち果てればその躰は跡形も無く消え失せ、持ちし記録は座に還るのみ。
サーヴァントとして主人をマスターと称し、付き従う従者に過ぎない。
其れがサーヴァントというものであり、英霊であり、彼という存在だ。
 彼は、私という異端の存在に召喚された、ルーラーのサーヴァント。
其れだけに過ぎない。


「――おかあさん………?」


 洗面所を出たところで、廊下の曲がり角で此方を窺い見る小さな少女の姿があった。
同じく私のサーヴァントであるジャックだ。


「あら…起こしちゃった?まだ寝てても良かったのに」
「おかあさん…何処かに行っちゃうの?」
「大丈夫よー。私は何処にも行ったりしないから。ただ早くに目が覚めたから、お腹が空いてたのもあってそのまま起きただけ。ジャックはどうする…?まだ寝る?眠いのなら、もう少しの間寝てても良いけど…」
「ううん…っ、起きてる。おかあさんが起きるなら、わたしたちも起きるよ」
「そう…?じゃあ、まだ寝間着のまんまだから、お部屋に戻ってお着替えしようね。それから食堂の方へ行こっか」
「うん…っ」
「では、また後程…。僕は先に食堂の方で待っていますね」


 ひらひらと後ろ手に片手を振って、その場を後にする。

 彼との距離感は何とも曖昧で、ふわふわと不思議な距離感だ。
たぶん、嫌じゃないとは思っている。


 ―ガクリ、躰が傾き少しばかりズレた為に、無意識に飛ばしていたであろう意識を持ち上げた。
ちょっと休憩するつもりで一寸ばかり目を覆い瞑った筈だったのだが…思いの外、疲れていたのだろうか。
思いっきし居眠りしかけていた。
(寸分とはいえ、意識を飛ばしていた時点で“しかけていた”という言葉は正しくないであろうが。)
 一人掛けのチェアに座ったまま上向きに姿勢を傾けていたせいで、首が痛い上に躰がギシギシと軋む。
思わず、「う゛…っ、」という呻き声が口から漏れるくらいには消耗し、疲れ切っていたようだった。
椅子に座ったまま寝こけるとは…我ながら随分と図太い神経だ。
否、ただの阿呆だ。
ずるりともたげた意識ごと躰を傾けて精一杯の伸びをする。


「――おや…お目覚めですか。おはようございます」
「うわ…っ、いつから居たんだお前…!」
「貴女が目を覚ます少し前からですよ」


 机を挟んだ向かいの椅子に腰掛け優雅にカップのお茶を啜る姿は、何とも絵になる構図だが、如何せん場の雰囲気がそぐわない。


「相当に疲れているのでしょう…?ここいらで少し休憩を入れてはどうですか?」
「う゛ーん…そうしたいのは山々なんだけど、今やってる書類が片付いてからじゃないと……っ」
「その仕事は、貴女以外の者がやっても差し支えないのでは…?これ以上は今後の予定に影響しかねない。碌に回らない頭では、まともな策を練る事も出来ませんよ。それに、万が一にでもレイシフト中に何かあって困るのは貴女だ。何より、この人手の少ないカルデアで今貴女に倒れられては元も子もないという話です。…これ以上、疲労と寝不足が深刻化する前に、一度休息するのがお勧めかと」
「…あ゛ー、はい……そうっすね…」


 相手が口を挟む隙も与えない程に詰め寄った彼に、私はその身を引き気味に仰け反らせ、曖昧に頷いた。
頷いただけでも満足なのか、彼は至極にっこりとした笑みを作って私を自室に追い遣った。

 後から気付いたが、先程目が覚めた時、赤い布らしき物が肩に掛けられていた。
恐らく、掛けたのは彼で、掛けられていた物は彼の上着だろう。
何の御礼も言わぬまま椅子に畳み置き出て来てしまったが、良かったのだろうか。
せめて、何かしらの礼を述べるべきだったな、と小さな後悔を胸に抱く。
次、彼の世話になる時があったら、その時に口にしようと決めた。
その機会は、意外とすぐにやって来たのだった。


 ―カルデアの空きソファーに腰掛けうつらうつら休んでいたら、いつの間にやら眠ってしまっていたようで…。
何か温かいものに触れられている感触を感じて、気が付いた。


「……おや、起こしてしまいましたか…。すみません。起こすつもりは無かったのですが、起こしてしまったのなら仕方ありません」
「……………ぅ゛、ん……?」
「ふふっ…まだ意識は眠りの淵にあるようですね。寝惚け眼な貴女も可愛らしいものだ。…構いませんよ、このまま眠っていても。私が貴女を癒して差し上げますから」
「……んぅ゛…っ、シ、ロウ………?」


 知らぬ間に、私の頭は彼の膝上に置かれていたようだ。
ついでに、ゆるゆると柔らかに頭を撫でられて、疲労した脳には酷く心地が良い。
つい、微睡みの中で猫の如く甘えて擦り寄ってしまった。
だが…まぁ、今の思考は完全に眠りの淵にある其れなのだから、少しくらいなら許されるだろう。

 まだ幼さを残す褐色の温かなその手に、疲れ切った身を委ねる。
見た目年齢は自身の住む国の基準では未だ成人を迎えていない年嵩の彼であるが、その背に背負うものは外見にそぐわず大きく重いものだ。
そして、私もまた、その身に余るものを今や背負ってしまっている。
故に、時折其れに耐え切れなくなったようにガタが来て、こうして眠りに身を臥してしまう。
 魔力は人並み程度、魔術師としての技腕もそれなりにはある筈。
しかし、元は平凡そのものの世界で生きてきた一介の人間には少しばかり…否、かなり身に余る話だったのだ。
世界を救うなど、大言壮語…私には出来っこない。
ただ、自身もマスター候補として選ばれた限りは、同じくマスター権を持つ双子の姉弟等を見守る傍らで、二人を守りつつ二人の手助けが出来たら良いなと思うのだ。

 黒い線の縁取る目元を彼の指が優しい手付きでなぞっていく。


「…いつもお疲れ様です、須桜」
「………マスター、とは…呼ばないんだね…」
「今は二人きりなんです…。偶には、マスターという仮の呼称なんかではなく、貴女自身の名前を呼んだって良いでしょう?我がマスター、須桜」


 薄ら目を開けて見つめていたら、腹の上に置かれていた片手を取られ、手の甲に口付けられた。
態とまざまざと私に見せ付けるかのように、敢えて至近距離で。
いつもなら一言ぐらい抗議するところだが、今や酷く眠気に思考を奪われていて抗議するという気にすらなれない。
 ぼんやりとした思考で、ただ彼の琥珀色に輝く瞳を見つめていた。


「…怒らないんですね」
「ん………いまは、ねむぃ…から……、」
「そうですか…。なら、そのまま眠ってくださっても結構ですよ。私が側に居ますから、守りの方は任せてください」
「……なんで、ひざまくら…?」
「嫌でしたか…?」
「…いや、ではないけども……なんか、へん…」
「少し前に…親しき友人たる女帝に同じ事を何度かしてもらった事があったんです。私は、其れをちょっと真似てみただけです」
「……それって…セミラミスのこと?」
「嗚呼、ご存知でしたか。…そうです。此れは、彼女に教わった他人を癒す方法の一つです。……気分はどうです?少しは楽になるでしょう?」


 慈愛に満ちた琥珀色に、眠気が限界まで来ていた私は答える事をせず、答える代わりに彼の頭へと手を伸ばしてその銀糸に触れた。


「…いつも、ありがとね…シロウ……」
「――っ…、」
「ざんねんながら、まだこのカルデアにはいないけども……いつか、彼女もきっとくるだろうから…。それまでは、さみしいかもしれないけど…まっててくれると、うれしぃ……な…………」


 小さく見開かれた彼の琥珀色の瞳を見つめたのを最後に、私は極度の睡魔に身を預けた。
彼の膝上に頭を預けたまま、私は静かに寝入り、呼吸をする。


「………全く…っ、貴女には敵いませんよ…須桜。まさか、私の方が心配されるとはね……」


 彼は、天を仰いだ後に笑みの含んだ吐息を零し、一人ごちた。


「…私は、今や貴女のものですよ、須桜…。私が今求めるのは、世界の平和と人々の安寧に……そして、貴女の幸福なんですよ、我が愛しのマスター」


 ――ですから、どうか、あまり無理をしないで…ご自身も大事にしてくださいね。今や、貴女の身は、貴女自身だけのものではないのですから。


 教会に属する者だった彼は、眠る私の額に安らぎを祈る祝福を贈るのであった。


執筆日:2019.06.02
加筆修正日:2021.10.03
prev back next
top