
平和の暮れに
つい先日まで夏の暑さを残していたというのに、もうすっかり秋の肌寒い季節に移ろいでいた。気温差が激しく、一日として気温があまり上がらないある日。
ラルは、冷たく冷えた手を擦り合わせながら、兄ナルサスの元へ歩み寄った。
『兄様、また絵を描いておられるのですか…?』
「うむ。丁度、良い絵が浮かんだのでなっ!これは素晴らしい出来になるぞ…!」
『それは良いのですが…少し肌寒くなってきたので、あまり外に長居しては風邪を召されてしまいますよ…?』
「なぁにっ、心配ない。私はきちんと対策しておるし、侍童(レータク)に付いたばかりのエラムがしっかりしておる。あまり気にせずとも大丈夫だ。それに、こんな気温がどうした…?ちっとも寒くないぞ。」
『私は寒く感じまする…。今夜は、きっといつもより冷えますよ。暖炉に火を焚いた方が宜しいかと。』
「ふむ…。なら別に薪を用意せねばなるまいな…。私から直接エラムに申し伝えておこう。」
そう言って再びキャンバスに向かい、うんうんと唸りながら描き進めていくナルサス。
その様子に嘆息した妹は、虚弱気味な身体を動かしながら、最近兄に付き従うようになった侍童の少年…エラムと暇潰しに言葉でも交わそうと内に戻ったのであった。
「ラル様、ナルサス様は如何されておられましたか…?」
『お得意の絵に夢中になってますね…。全く…っ、貴方が来たからと家事を任せっきりになるなんて。妹として呆れてしまうわ…。』
「私は、ナルサス様にお仕え出来て幸せであると感じておりますよ。奴隷であった私共を、皆がしないであろう解放という事をしてくださったのですから…。感謝してもし切れませんよ。贅沢にも家に置いて頂く身なのですから、家事くらい為すのは当然の事です!」
『エラムが望むと言うのであれば、私は何も言いませんが…。兄様を甘やかし過ぎては、いつか調子に乗ってしまわれるので…程々にね?時には厳しく申すのも、侍童の役目ですよ。』
「はいっ、存じております。ですから、ご心配は無用ですよ、ラル様…!ラル様は此方でゆっくり寛いで頂いて、家事などの雑用は全て私にお任せくださいませ!」
『ありがとう、エラム。…とても助かるわ。』
まだ子供である侍童は、純粋で力強い瞳で彼女の事を見つめた。
―夕暮れ時になった頃、漸く気の済んだナルサスが大きなキャンバスを抱えて戻ってきた。
「やぁ、すまんすまん…っ。思っていたよりも遅くなってしまった。最後の仕上げが思うようにいかず、手間取ってしまってな…。もう夕食は出来ているのかな?」
「お帰りなさいませ、ナルサス様。御夕食なら、もう少しでご用意出来ますので…お手を洗って居間にてお待ちください。」
「うむ、了解した。では、手を洗って待っているとしようかな。…ところで、ラルはどうしている?」
「ラル様でしたら、彼方の方に…。」
問われたエラムが、鍋をかき混ぜていた手を止め、振り返り、居間の方を示そうとすると…。
言葉を言い終えるより先に、居間の方から声が聞こえた。
『私なら、暖炉の前で暖をとっていますよ。』
「おぉ、其方に居たのか…!体調はどうだ?」
『日暮れより少し寒気がしておりましたので…いつもより厚着をして着込み、温まっておりました。仕舞い込んでいた服でも出そうかと思いましたが…生憎、随分と奥の方に仕舞っておりましたので…今すぐには叶わず。仕方なく、暖炉の前で温まっておりましたの。』
「そうか…。なら、俺の上着を羽織ると良いだろう。今までずっと着ていたものだから、俺の体温が残っている分、温かろう。」
ナルサスは、そう言っていつも自身が緩く羽織っている上着を彼女の肩に掛けてやった。
慌ててラルは上着を掴み、「いけませんっ!」と首を振った。
『それでは兄様の身体が冷えてしまいます…!私の事は構いませんので、どうぞ着ていてくださいましっ!!』
「俺は男で、剣も扱える程丈夫な身体なんだぞ…?そう易々と風邪を引く事はないさ。…それに、大事な妹の身の方が心配だからな。遠慮せずに俺の好意を受け取っておきなさい。」
優しい口調に兄らしい立ち居振舞いで諭すナルサス。
向けられるその微笑みは、決して妹にしか見せない、唯一無二の温かい眼差しだった。
そんな様子を、少し離れた台所から見ていたエラムは、温かい兄妹愛にくすりっ、と微笑んでから作業へと戻っていく。
何とも微笑ましく仲睦まじい…平和な時の、嘗ては宮廷勤めだった書記官とその身体の弱い妹君であった。
◇END
加筆修正日:2019.07.09
加筆修正日:2019.07.09