
リズミカルなjazzに乗せて
―このお話は、ある時、一人のキャリアウーマンたる女性が付き合っていた男性に振られ、自棄になった挙げ句、普段行きもしない店へと半ば雪崩れ込むようにして入るところから始まる…。特にお酒が好き、という訳ではないし、お酒に強い訳でもない彼女。
しかし、突如好きだった男性に振られたショックで正常に働かない頭では、思うように思考がまとまらず、遂には先程の事を一刻も忘れ去ろうと考える事を放棄したのだった。
泣きたくもないのに散々涙が溢れてしまったせいで、両の瞼は赤く腫れ上がっていた。
だが、そんな事ももうどうでも良くなってしまったのか、酷い有り様のまま、適当に目に入ったバーへと入店していった。
運良く、店はマスター以外の人間は居らず、静かな空間に少しだけ気持ちが安らいだ。
マスターは、来店した客の顔を見るや否も、一瞬だけ躊躇う様子を見せるだけですぐに元の表情に戻し。
「いらっしゃいませ。」
と温かく歓迎してくれたのであった。
この酷い有り様の顔や様子など気になる事は山程あるだろうに、何も触れてこないでいてくれるマスターの優しい気遣いに感謝しながら、カウンター席の真ん中近くに座る。
未だ眦に涙を残し、すんすんと鼻を啜る様子にも触れる事は無く。
マスターは、いつもの客に応対する時と同じように軽い調子で。
「お飲み物は、何に致しますか?」
と、訊いた。
彼女にとって、その気遣いは感傷に浸る心にじわじわと染み入るものだった。
再び鼻白みかけたが、我慢し、泣き過ぎて嗄れてしまった声で言葉を紡いだ。
『………じゃあ…カクテルで…。度は少し高めに…甘口なヤツをお願いします……。』
何とかそれだけを絞り出したような言葉に、彼は柔らかな口調で「畏まりました。」と丁寧に承った。
注文を受けると、手際良くカクテルを作っていく店のマスターである彼…サーム。
流れるような手付きで、あっという間に酒は完成する。
完成した酒を綺麗にグラスへ注ぎ込み、仕上げに切ったフルーツを縁に飾り付ければ出来上がり。
彼は、それをスッと客人の前に出すと、これまた丁寧な謳い文句を口にした。
「どうぞ。ご注文のカクテルでございます。」
その流れるような一連の動作の一部始終を眺めていたラルは、ぼんやりとした意識でそれを受け取る。
そして、蚊の鳴くような小さな声で、「ありがとうございます。」と礼を述べた。
聞こえにくいような小さな声だったのにも関わらず、しっかりとその声を聞いていたマスターは、大人の色香漂う柔らかな笑みで。
「どうぞ、お召し上がりくださいませ。」
と、言ったのだった。
その後、彼女は酒が入った事で男に振られた事を愚痴垂れ、酷く落ち込むようにカウンターテーブルの上に顔を伏せ、再び啜り泣き始めるのである。
そんな一件から、彼女は何かとあればサーム営む店へと通い、人生相談に乗って貰うようになるのだった。
いつしか気付けば常連客になっており、サームと旧き良き仲の友人であるカーラーンともすっかり親しくなっていた。
実はこれに少し妬いていた…というのは、彼とカーラーンの間での秘密な話である。
閑話休題。
それから、暫く店に顔を出さなくなって、久しく来店してきたと思ったら…。
初めて出逢った時と同様に酷く落ち込んだ様子で、カウンター席に座るなり強めの酒を注文し、数口飲んだだけで酔い潰れたようにテーブルに伏せたラル。
サームは変わらず、何も聞かず、ただ彼女が発するであろう愚痴話に付き合ってやろうと静かに待っていた。
だが、それも、ラルが次に漏らした一言で関係が動くのであった。
『……はぁ〜あ………っ。…付き合うんなら、サームさんみたいな人が良かったなぁ……………。』
瞬時、ピタリ、と動きを止めるサーム。
店はあの日と同様、二人きりのカウンター。
静かな店内に流れるジャズ調の音楽がやけに大きく響いているように感じられた。
たっぷりと間を空けて、彼は彼女が零した言葉に漸く返答を紡ぎ出す。
「……それは……本気で取っても良い…という事で宜しいのかな………?」
『…………え?』
今度は、此方の刻が止まる番だった。
驚いて、涙に濡れたままの頬を拭わないまま、彼を見遣る。
彼は、真っ直ぐに彼女の事を見つめていた。
「…貴女さえ良ければ、どうか私と付き合ってはもらえないだろうか?」
そう告げた彼は、いつもの大人の余裕を滲ませた色香に少しだけはにかみを乗せて笑った。
またとなく心救われたラルは、思いがけぬそれに胸を高鳴らせ、口許を覆った。
理解の追い付いていない頭が、あまりにも吃驚して言葉にならない音を声に乗せる。
そんな彼女の濡れた頬にそっと手を伸ばし、涙を拭ってやったサームはこう言った。
「実は…少し前から、貴女の事をお慕い申しておりました…。」
『……ぇ………っ。』
「振られて弱ってしまっているところに漬け込むような形になってはいけないと思っていたのですが…こうも貴女が悲しんでいるところを見ていると、我慢出来なかったのです。」
困ったように眉を下げて苦く笑った彼は、何故かとても紳士的に見えた。
「貴女が涙しているのを、何もせず見ているのは…もう嫌なのです。私なら、貴女を泣かせてしまうような事はしないと約束致しましょう。」
呆然として微動だにしない彼女の手を取って、優しく包み込むように触れたサームは真摯な眼差しを投げて告げた。
「ラル様…私は、貴女の事が好きです。出逢ったあの日より、お慕い申しておりました。…願わくば、貴女様のお側に寄り添う相手に、私を選んでは頂けないでしょうか?」
静かなクラシックなジャズに、密かに燃え上がっていた恋心が今、想いを交わし合い、花芽吹いたのだった。
―大人な恋は、リズミカルなjazzに乗せて…。
執筆日:2019.07.29