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記憶の欠片



彼女が自分のやらかしてしまった失態にひたすら自己反省し、頭を抱え込んでいた頃。

彼は、倒れる彼女を抱き止めた時の事を思い出していた。

昨晩、大学の帰りに同じゼミの友人から遊びに誘われ、それに付き合っていたら随分と予定より遅い帰りとなってしまっていた。

何時もより遅い時間、早足で歩きながら帰路へと着く。

家までの近道で駅構内を突っ切って行こうと広場を歩いていると、見知った顔を見付け、息を飲んだ。

また再び逢えるとは思っていなかった人物に、もしかしたら人違いかもしれないと考えながら見つめていた時、不意に、その人は倒れかけた。

慌てて駆け寄り、その身を抱き止めれば、確かに感じた、懐かしい感覚…。


「ッ…!?おいっ、しっかりしろ…!!」


声をかけたが、気を失っていた彼女には届かなかった。

一先ず、彼女を抱え、彼女の身を横に出来る家まで急いで帰る事にしたのだった。


―そして、今に至る。

隣で彼女の事を観察していた彼は、考えていた。


(俺の事を、憶えていないのか…?)


時折、低く呻くような声を漏らす彼女を見て思う。

自身を見て、何も言わないところを見ると、どうやら以前逢った事がある事を憶えていないようだ。

なら、全くの初対面というように接せられるのは、当然であろう。

憶えていないのか、はたまた、完全に忘れてしまっているだけなのか。

どちらにせよ、今はどちらでも構わない事であった。

未だ頭を抱え込んだままの彼女を横目に、ベッドから退いた彼は、顔を洗いに立ち上がる。

ついでに、着替えも済ませて、朝食の支度にでも取り掛かるかと動き始める。

隣を見ると、頭を抱えて蹲ったままの彼女は、自身が顔を洗い、すぐ側でさっさか着替えを済ませた事にも気付いていない。

見知らぬ他人に世話を焼かれた事が、余程ショックだったのか。

あれから全く動きという動きを見せない。

まぁ、此方としては、全くの初対面且つ見知らぬ他人という訳ではないのだが…。

ちゃんと意識は正常に起きているのだろうか。

少しだけ心配になり、控えめに声をかける。


「…おい、大丈夫か?アンタ。」
『ひぇ…っ!?ぁ……はい、だいぶ落ち着いてきたので、大丈夫、です…。』
「そうか…。顔を洗いたいなら、ドアを出てすぐの右手に洗面所が在るから、其処を使ってくれ。タオルは、すぐ其処に置いてあるのから好きに使え。」
『…えっと、その…色々とご迷惑をお掛けしてしまって、すみません…。それと、介抱してくださり、ありがとうございました。何から何までお世話になってしまって、すみません……っ。』
「気にするな。俺が勝手にやった事だ。アンタが気に病む必要はない。」


漸く我に返ったのか、復活した彼女がまず口にしたのは、謝罪と詫びだった。

彼女らしいと言えば、らしいが。

その事については、あまり気にせず、今伝えておくべき事を簡潔に伝えておく事にした。


「一応、知り合いに医療に通ずる奴が居たから、呼んで、アンタが眠ってる間に診てもらった。アンタが倒れたのは、貧血が原因だそうだ。大した事はないらしいが…気分が悪くなったりしたら言ってくれ。」


そう言うと、呆然と此方を見遣る彼女に背を向け、朝食の支度に取り掛かる。

台所スペースに立ったところで、後ろ背に彼女の返事が返ってきた。


『そう、ですか…。何か、お知り合いの方に診てもらうまでして頂いちゃって、すみません…っ。本当、何から何までお世話になりっ放しですね…。ありがとうございます。』


少しだけ元気を取り戻したような様子の声音の返事だった。

声は相変わらず、酷く嗄れていてガラガラだったが。

何故かは、まだ昨晩の出来事以上の事以外は聞いていないから、知らない。

どうせ、まだ色々と説明しなきゃならない事はあるだろう。

追々聞いていけば良いかと適当に考え、思考に区切りを付ける。

そうこうしていると、ベッドを抜け出してきた彼女が、タオルを持って近寄ってきた。


『あの…、もう既にたくさんご迷惑を掛けてしまった上での申し出に申し訳ないんですけど…申し訳ついでに、シャワーをお借りしても良いですか…?昨晩、気を失った後、そのまま寝てしまっていたので、お風呂に入れていなかったのが気になってしまって……っ。その、ご迷惑じゃなければ、で良いんです…!駄目なら駄目で、元々ですから…っ!』
「別に…そのくらい好きにしたら良いが…?俺は朝飯を作っているから、その間に済ませてくれば良いんじゃないか。」
『ぇ……。あ、えと、ありがとうございます…っ。お言葉に甘えて、シャワー、使わせて頂きますね…!』
「一々礼なんて言わなくても良いんだがな…。まぁ、別に構わないが。昨日倒れたばかりだ、あまり湯に中り過ぎるなよ?」
『は、はい…っ!気を付けます…!』


パタパタと急に忙しく動き始めた彼女に、心配の目を向ける。

本当に大丈夫なのだろうか…。

いまいち、不安が残って信用しきれない。

微妙な不安を抱えながら、料理へと集中し、朝食を作り始めていった。

今日の朝食は、主食にトーストとメインに簡単に焼いただけのベーコンとソーセージに、スクランブルエッグ、それにサラダを添えた軽い物だ。

付け合わせに、インスタントのスープを好みで付ければ上出来だろう。

飲み物は各自好きな物を選ぶとして、後は彼女が出てくるのを待つだけだ。

簡単なメニューから、すぐに出来上がってしまった品々を皿によそい、綺麗に片付けてあったテーブルへと運ぶ。

少し早めに終わった調理に、時間が余ってしまった。


(彼奴が風呂から出て着るだろう着替えを用意しておくか…。)


彼女が元々着ていた服は洗濯していたが、一晩も経てば乾いている事だろう。

ベランダへと向かい、干していた彼女の衣服を取り込み、畳んで脱衣場の一角に置いておく。

その時、なるべく、彼女が脱いだであろう物には目を向けないよう、足早に去る。

部屋へと戻って、ふと窓の方を見遣り、気付く。


「あ…パンツ干したままだったの忘れてた…。」


もしかして、見られてしまっただろうか。

片付け忘れていた物を掴み、急いでタンスに仕舞い込んだ。

丁度その時、シャワーを終えた彼女が部屋へと戻ってきた。


『シャワー、お借りしました…。ありがとうございます。』


律儀にもペコリと頭を下げて礼を言った彼女が、頭を上げる。


『それで…使ったタオルは、何処に干せば良いんでしょうか?』
「それなら…其処ら辺の空いてるハンガーにでも引っ掛けておいてくれ。どうせ、後で洗濯するしな。」
『解りました。このハンガーに掛けて、吊るしておきますね。』


カチャカチャとタオルを空いたハンガーに掛け、適当に干しておく。

さて、人物は揃った。

二人は手を合わせて、彼の作った朝食を食べ始めた。

彼は珈琲を、彼女はカフェオレを注いで、出来立ちの朝食にありつく。


『朝食まで頂いちゃって、すみません…っ。でも、凄く美味しいです…!卵とかふわふわで、私だったらこんなに上手く作れません。』
「…そうか。」
『お料理、お上手なんですね。羨ましい限りです…っ。』
「別に、一人で暮らしているから、成るように成っただけだ。」


普段と何ら変わらない、素っ気ない態度で言葉を返す。

だが、彼女は気にしない質なのか、明るい声で返した。


『…あの、お食事中話しかけるのは失礼かと存じますが…貴方のお名前の方を窺っても?あ、私の名前は、花江璃子です…。』
「(嗚呼、知っているさ…聞かなくてもな。)…大倶利伽羅廣光だ。」
『おおくりからひろみつさん、ですね…!ありがとうございます!何だか格好良いお名前ですね…。書く時、長くて難しそうですけど。』
「別に大した事じゃない。もう慣れた。」
『そうなんですね。では…次に、お名前に加えて、つかぬ事をお訊きしても良いですか…?』
「何だ?」
『えっと…ちょっと疑問に思った事で、私が起きた時に着ていた服の事なんですけど…。上のサイズは私には少し大きかったので、大倶利伽羅さん…?の物なんだろうなぁとは思ったんですけど…下のサイズがピッタリだったのに驚いて…。たぶん、大倶利伽羅さんのサイズだったらずり落ちてる筈なんですが…大倶利伽羅さん以外の誰かの物だったりするんでしょうか…?』


問うてきた彼女は、申し訳なさそうな顔をして此方を見つめてきた。

まぁ、自分が勝手に着替えさせた物だ。

気になっても仕方ない事だろう。

別段、顔の表情を変える事なく、彼女の言葉に返答する。


「呼びづらいのなら廣光で良い…。下のズボンなら、しょっちゅうこの家に遊びに来る親戚の子供、貞のを借りた。彼奴は、人が許可していないのに、勝手に私物を置いていくからな。反対に、此方が勝手に借りてやっただけだ。アンタが気にする事じゃない…。」
『成程…貞君?の物だったんですね。その貞君は、よくこの家にお泊まりされるんですか?』
「嗚呼…勝手に遊びに来て、勝手に泊まり込んで来る。」
『(もしかして…かなりの頻度で来訪してるのかな?貞君という子は…。心なしか、米神がピクピクしていらっしゃる…。)仲が宜しいんですねぇ〜…。あ、でも、子供さんって仰っても、幾つくらいのお子さんなんでしょう?私でも入った、という事なので、だいぶ大きい子なんでしょうか?』


もぐもぐと朝食を食べる傍ら、行儀が悪いと知りながら、話しかけてくる彼女。

そんな彼女の言葉に、彼は律儀にもきちんと言葉を返した。


「貞は、今中学二年だ。」
『ちゅ、中学生…!?』
「と、言っても、身丈はアンタと変わらないくらいの奴だ。服のサイズが合っても可笑しくはないだろう。」
『あ、そうでしたか…。』
「ついでに言うと…俺は、今二十一で大学三年だ。」
『あ、そうだったんですね。じゃあ、私と同い年か、一個歳下かぁ…。』
「アンタは?」
『へ…?』
「アンタは今、何をやってるんだ?」


思った以上に強い眼差しを向けつつ、問うた彼。

一瞬、その有無を言わせぬ眼差しの強さに怯み、躊躇いを見せた彼女は、苦く笑って笑みを浮かべた。


『お恥ずかしながら…今は、何も…。学業は既に卒業して、職に就いていたんですが…人間関係に失敗して、ちょっと職場に居辛くなってしまいまして、それで…。今はフリーというか、単純に言っちゃえばニートですけど、少しの間、傷心の傷を癒したら、また新たなお仕事に就こうって思ってるんです。取り敢えず、現在は、ハローワークをちょこちょこ頼りながらではありますけど、少しずつ職場に就く事の準備をしている状況なんです。……って、大学生相手の、それも逢って間もない相手に何言ってるんだって話ですよね…!すみませんっ、変に暗いお話なんかしちゃって…っ!それも、これから就職活動をするかもって子に、なんて悪いお話を…っ。本当、すみません!忘れちゃってくれて構いません!寧ろ、忘れちゃってください…っ!』
「……いや、別に変な話だとかは思っていないし、一応参考になった。それと、俺は就職活動をしなくても、既に叔父が勤めてる会社から勧誘を受けているし…ツテは幾らでもあるから、困る事は無いんだ。アンタが心配する必要はない。気にするな。」
『あ、あはは…っ!何だ、そうなんですね!それを聞いて、安心しました…!』


無理に作ったような笑みを浮かべて笑う彼女に、彼は心を痛めた。

此処で再び出逢えたのも、何かの縁だ。

自分が側に居れる限りは、自分が彼女を支えてやろうと、ひっそり思うのだった。


執筆日:2018.09.29