溢れ萌ゆるは恋草のよう
朝方、早朝帯の事である。
昨日の昼過ぎ程より起きてから、一晩中ずっと起きて仕事を片付けていた。別に、其れ自体は何も珍しい事ではない。寧ろ、よくある事であった。
不健康極まりない、不摂生な生活サイクル。一度起きたら、丸一日分の時間……凡そ二十四時間分は活動限界が来るまで起きている。
何故其処までするのか。特に深い理由は無いが、強いて言うなれば、活動限界まで動けば自然と体が睡眠を訴え出すから……だろうか。あと、此れは補足的おまけで付け足すが、ある一定の期間の話……夜に眠るのが嫌いになったからだ。だから、此処の本丸の審神者は、ほぼ丸一日の時間を起きていたかと思えば、知らない内に電池を切らしたように部屋で伸びているのである。
この日も、そんな一幕の事であった。
皆が寝静まっていた中、一人夜通し起きていた審神者は、障子の硝子窓部分から差し込む朝日を背に受けながら疲れ目をしぱしぱと眠たげに瞬かせる。作成途中だったデータは完成間近というところにまで来ていたが、画面を見つめ過ぎた目がいい加減限界を訴えている。おまけに、頭を使った事から脳味噌が疲労したのか、若干の眠気まで催していた。どうせなら、今作っているデータの作業完了まで頑張りたい――が、体は正直なのか眠気は増すばかりで作業効率は落ちる一方……。とうとう音を上げた審神者は、パソコンの画面はそのままにバタリと後ろに倒れた。眠気に負けたのだ。
一応、データには保存は掛けた。少しの休憩くらいは許されるだろう。審神者はころりと寝返りを打って、そのまま少しばかりの時間寝入る事にしたらしい。ほんのちょっと軽く
朝餉を作りに厨当番の者達が活動し始める頃合いの時間帯だった。夜の帳が落ちるのと同時に静まり返っていた本丸の時間は、再び賑やかさを取り戻すように徐々に其処に息衝く物音を立て始めていく。そんな誰かの息衝く音を合図に目を覚まし始める者達もちらほら……。とある刀もその内の一振りで、日が昇る頃に合わせたように目覚める早起き勢の者が居た。一文字一家の長を名乗る彼である。
本日もすっきりと目覚めるなり、身支度を整え、今しがたまで使っていた布団を丁寧に畳んで押入れへと仕舞う。そうして、早速出来た暇時間を埋めようと、今日の当番表の貼り出されている掲示板のある処まで確認に行く。錬度が上限に達したカンスト勢は、基本的何の当番も割り振られていない限りは常に非番なものと考えて良い。だが、この刀に限ってはそうでは無かったようで、ここ暫くずっと近侍の任を任されていた。其れは今日も変わりないようで、近侍役の枠に自身の名前の札が掛けられていた。どうやら、今日一日も愛しい小鳥の側で仕事の様子を見守る事が務めなようだ。
自身の本日の役目を再確認してちょっぴり嬉しげに笑みを浮かべたところで、今度は厨へと顔を出しに行った。朝の台所と言えば、謂わば戦場のようなものだからだ。本丸に所属する刀数も優に三桁を超す程増えた、その分用意する食事の数も相当な量である。恐らく、ちょっとした食堂並みと言っても差異は無かろう。人手は幾ら有っても困らないだろう、そう思ってそっと暖簾を掻き分け、中の様子を窺ってみた。すると、この日に限っては人手はしっかりと足りていたようで、厨内は手狭な様子でひしめき合っていた。其れでも、気持ちばかりと声をかけてみれば、案の定「人手は足りているから大丈夫」と暗に手伝いを願い出ようとしていたところを断られてしまった。まぁ、人手が足りているのなら自分が下手に出しゃばるのも悪かろう。彼は素直に「そうか」と言葉短めに頷くと、暖簾の隙間より出していた頭を引っ込ませようとした。しかし、一旦その場を去ろうとしていた一瞬手前で呼び止められる。
「
「あぁ、勿論だとも。もし起きていたらば、そのまま食事を摂るように伝えれば良いだろうか?」
「うん。もし寝てた場合は、無理に起こす必要は無いから。普通に寝てた時は彼女の分だけ避けて取っておくからね。あ、でも、寝落ちた状態とかでちゃんとした形で寝てない時は起こしてあげてね。あの子、意外とズボラなとこあったりして、何も掛けずの状態で寝てたりとかザラにあるから……っ。そのままにして風邪引かれても困るし」
「了解した。では、そのように」
朝餉の付け合わせだろう、ポテトサラダを作る手を止めぬまま頼んできた燭台切の言葉に鷹揚に頷いてみせた彼は、今度こそ暖簾の隙間より頭を引っ込ませた。そうして、言われた通りに離れの間に居るであろう審神者の元を目指した。
朝から彼女の顔を拝めるのは幸いだ。心なしか、役得な役目を得たなと年甲斐も無くはしゃぎそうになって咄嗟に己を律する。出入り口の障子の前まで辿り着くと、一度気持ちを整える為に小さく咳払いを挟む。その後、なるべく声を抑えた形でそっと優しく声をかけた。
「小鳥よ、起きているか? 私だ、山鳥毛だ。もうじき朝餉が出来るからと様子を見てくるよう燭台切に頼まれてね。中へ入ってもよろしいかな……?」
呼びかけに対する返答は無い。もしや、就寝中だっただろうか。寝ている最中の女人の部屋へ入室する事は憚られたが、一目様子を見てみない事には中の様子は分からない。一呼吸分の間をたっぷりと挟んだのち、意を決した彼は一言「失礼する」との断りを口にして彼女の自室とを隔てる戸を開けた。そして、ぐるりと中の様子に目を遣って、ふと目に留まった光景にぱちくりと瞬きをした。戸口に立ったまま寸の間の一瞬だけ呆気に取られたように固まる。しかし、すぐにハッとしたように動き出し、伸びたように寝転ぶ彼女の元へ歩み寄って行く。
近くに歩み寄ってみると、成程……此れは確かに寝落ちと大差無いように眠っている。明かりの点いたままの部屋に、恐らくは仕事を片付けていた途中だったのだろう、画面の閉じられぬままの端末が机上の上に置かれたままになっていた。本当に就寝体勢に入った時の彼女は、奥の寝室の布団に寝転んでいる筈。従って、現状は、作業中眠気に負けてつい横になったらそのまま寝てしまった、という流れなのであろう。全く、無防備極まりない姿である。此れで本丸の将、引いては部領なのだから、少し油断が過ぎるように思う。けれど、安全な本丸の中且つ信頼した仲間達の居る空間だからこそ……が理由であらば、まぁ少しくらい大目に見なくもないか。
一先ず、このまま何も掛けずのままでは風邪を引いてしまう。女人は体を冷やすのが一番悪いと聞く。手っ取り早く掛けれる物として思い付いた、
眠っているのを良い事に、山鳥毛は無防備を曝す彼女の頬に触れた。普段ならば、許可を得てからしか手指を伸ばすような事はしない。けれど、今この時ばかりは特別な時間だと、少しだけ大胆に積極的な行動を取ってみせた。そっと優しく指の背で触れた頬は、柔く滑らかであった。白くまろい触り心地に、彼はそのまま撫ぜるように手を動かしてみる。彼女に対してこのように触れる事は稀だ。彼はうっそりと微笑み、彼女の寝顔を眺めた。頬へ触れても撫ぜても、審神者は起きる様子を見せない。思ったよりも深く寝入ってしまっているようだ。ならば、と畳の上に散らばる髪へも手を伸ばし触れた。次いで、彼女の髪質を楽しむように半ば梳くような形で頭を撫ぜる。ゆうるり、ゆうるり、慈しむように撫ぜていると、頭に触れる感触やら何やらで意識が浮上したのだろう、目を覚ましたらしき審神者が目蓋を震わした。
初めは薄っすらとだけ、次第にゆるりとその瞳を覗かせた彼女は、まだ寝惚けた様子でゆるゆると緩慢な動きで瞬きを繰り返す。そんな愛らしき彼女へ、含み笑いを堪え切れなかった山鳥毛は小さく笑みを漏らした後にそっと声をかける。
「お目覚めかな、私の小鳥よ……? 随分と無防備な様で寝転んでいたようだが、良い夢は見れたかな?」
きっと、未だ半分夢見心地の状態なのだろう。状況を飲み込めていない寝起き感満載な彼女は、ぼんやりとした様子で緩慢な瞬きを繰り返すばかりで何の返事も返さない。そも、寝起きの彼女はローテンションの基本無言スタイルが通常運転である。
試しに、前髪を浚うように撫ぜれば、気持ち良さそうに寝惚け眼を細めた彼女の反応に気を良くして、もっと撫でてやろうと更に頭を撫ぜてやりながら穏やかな声音で囁きかける。
「幾ら安全な本丸の中と言えど、何も掛けぬまま寝転ぶのは頂けないな……。疲れて眠気に負けてしまった事は仕方ないとしても、もう少し気を回さねば風邪を引いてしまうかもしれないぞ。特に、君は女人故、なるだけ体を冷やしてはいけない。次からは気を付けなさい、良いね?」
彼の囁きかける声に段々と意識を覚醒させてきたのだろう、少しばかり身動いでみせた彼女が小さく唸る。その声は、小さな子供がむずがってごねる時の様子にそっくりだった。愛らしさたっぷりのその姿には、流石の一文字一家のお頭も形無しなようで、ゆるゆると崩れた表情を隠せなかった。うっそりとした笑みを浮かべたまま寝起きで愛らしい様を見せる彼女の頬を撫ぜる。
「嗚呼、可愛い小鳥よ……寝起きだからとて、そんな無防備を曝しては……っ、愛らしさのあまりに何処の誰とも知れぬ輩に攫われてしまうかもしれないぞ? まぁ、そうなる前に私の羽の下に隠してしまうがね。……っふふ、あまりそう無防備を曝してくれるな。私とて、一介の男に過ぎないのだから……」
するり、と撫ぜる手に擽ったさを覚えずには居られなかった彼女は、きゅうっと目を瞑ったのちにぱちりとその
「ん゛ぅ……っ、なぁに…………?」
如何にもな寝起き声と反応に、愛しさが溢れて仕方ないという風な眼差しを向けて見つめてくる山鳥毛はクスクスと笑みを零しながらこう返した。
「おはよう、小鳥。燭台切より、もうじき朝餉が出来るとのお達しだぞ。食べる余裕が残っているのなら、身支度を整えてから来なさい。私は、君の用意が整うまで戸の外で待っていよう」
最早隠す気は無いのか。ただの一介の部下と言うには明らかに一線を越えし何かしらの感情を滲ませた熱い眼差しに、寝起きながらも微々たる感知能力から察してしまったらしい審神者は、内心で少し思うところがありつつも敢えてその事には触れずに「ん……」と頷きを返した。其れに満足げに頷いた彼は、最後に一撫で頭を撫でていったかと思えば、名残惜しげに手を離して部屋の外へ出ていく。
数秒間、今しがた受けた行為の意図は何ぞやと思考するも、寝起きと空腹も相俟ってか頭が働かずに、大して考える間も無く考える事を諦めた審神者。
手早く適当に身なりを整えて後を追うように部屋を出て、声をかける。すると、戸口のすぐ側で待機していたらしい彼が此方を柔らかな眼差しで以て見下ろしてくる。
「おはよう、ちょもさん。起こしてくれて有難うな。ちょっとのつもりが、うっかりガッツリ寝てしもうとったわ。危ねぇ危ねぇー……っ。ハイ上着、貸してくれて有難うございます〜」
「夜通し起きて仕事をしていて疲れてしまったのだろう? 朝餉を食べて少ししたら、今日のところはもう寝てしまいなさい。あまり根を詰め過ぎるのも良くないぞ? 眠れなければ、小鳥が寝付けるまで側に付いていてやろう」
「いや、何も其処まで厄介になる訳いかんから……っ。つーか、別にそんなんせんでも普通に寝れるからね……!」
「我が小鳥の夢見の悪さは本丸の皆が知るところだろう? 大丈夫、そう怯えずとも、君がその気になるまでは何も手出しはしないさ」
「ん゛ん〜?? 今、何かちょっと気になる事を言われたような気がしたのですが……?」
「はははっ、気のせいだよ。さぁ、行こうか」
にこやかな笑みで流され、一瞬の違和感を考える隙も無く手を取られて先へと促される。結局、この時ばかりは何も返す事無く、その日も一日穏やかに過ごすのだった。
再掲載日:2023.05.23